クロード・ルブランさんに

2026-03-16 lundi

ZOOM JAPONというフランス語の日本文化研究誌の編集長をしていたクロード・ルブランさんがそこを辞めることになった。私は一度長いインタビューを受けたことがある。送別の言葉をお願いされたので、一文を草した。 


 僕は「東アジア的」な物書きであるらしい。東アジア諸国にはそれなりの数の読者がいる。韓国語には57冊の著作が訳された。中国でもかなりの数の訳書が出ており、一冊は「中国共産党幹部党員への推薦図書」に選定された。タイ語でももうすぐ最初の訳書が出る。でも、欧米語の訳書は一冊もない。
 一度だけドイツの雑誌に農業についての短い論文が訳されたことがある。それを含めて過去20年間に僕のところに取材に来たの欧米語媒体は全部3つである。一つはスイスのラジオ局。日本の宗教についてのインタビューだった。一つはZOOM JAPONである。欧米語のメディアに全く注目されていない書き手のためにカバーストーリーを提供してくれたのはZOOM JAPONが唯一のメディアである。だから、フランス語話者のためにかなり長い頁を割いてくれた編集長のクロード・ルブランさんには深く感謝している。
 ルブランさんが僕に注目してくれた理由と、欧米語圏のメディアが僕を無視する理由はたぶん同じだと思う。それは僕の考え方が「東アジア的」だからだと思う。
 僕自身は大学院でフランス文学研究のアカデミックな訓練を受けた研究者なので、推論の仕方や、書き方はそこそこ「フランス的」であると思う。でも、書き方がいくら「フランス的」でも、提示されるアイディアが「東アジア的」だとフランス語話者にとってはたぶん「リーダブル」ではない。
 それはどういうところなのか、自分でも興味がある。僕が欧米語話者からして「読みにくい」書き手であるのはなぜか。
 理由の一つは僕が武道の修行者として「超越的なもの」に対して開放的であるという点、もう一つは天皇制の政治的効果を高く評価するという点だと思う。
 日本の宗教性の本質は「神仏習合」に典型的に現れているように、アニミズム的である。自然崇拝と祖霊信仰が基礎にある。山岳にも、海洋にも、河川にも、森林にもぼんやりとした霊的な畏怖を感じる。僕は滝行という修験道の行に親しんでいるけれど、この行は岩の間から流れる水のうちに一種の「神性」を感じる感受性がないと行う意味がない(その感受性がなければ、ただの「水浴び」になってしまう)。
 僕は自分の道場で毎朝「おつとめ」を行うけれど、それは祝詞をあげ、般若心経を唱え、不動明王の真言を唱え、九字を切るという「全部乗せ」的なものである。
 このような宗教的混淆は、欧米のユダヤ=キリスト教的な霊的感受性からは「理解し難しいもの」というよりはむしろ「粗雑で、未開な宗教性」に映ると思う。宗教学のフィールドワーカーでなければ、そんな宗教的に未開な人間の書いたものを読みたいとは思わないだろう。

 天皇制もたぶん欧米的知性からは「未開文化」に見えると思う。この長い伝統を持つ政治的擬制は「世俗権力」と「霊的・道徳的・文化的権力」を別の系に切り分ける「両院政的」なアイディアに基づいている。パワーポリティクスの本質は「敵に勝つ」であるが、天皇制の本質は「一視同仁」である。極言すれば、天皇制の本質は「調停」である。国内のさまざまな政治的立場を包摂して、ことの理非を明らかにしないことに存する。
 日本社会には、ことの理非を明らかにせず、ものごとの筋目をごちゃごちゃにしてしまう政治的装置のようなものが存在する。存在するどころか活発に機能している。そのこともまた欧米的知性からは理解しがたいことの一つだろう。
 法社会学者の川島武宜の『日本人の法意識』(岩波書店、1967年)という日本人論の名著がある。川島は天皇制には直接言及していないが、日本の政治文化の際立った特徴が「調停」に存することを指摘している。
 「調停」というのは利害の相反する立場の両方の「顔を立てて」、妥協を図ることである。つまり結果的に当事者双方が同程度に不満なおとしどころを見出す技術である。日本社会では、この調停技術に長けた人間が「大人」だとみなされている。
 日本の「やくざ映画」では、調停者はつねに圧倒的な貫禄を持つ「長者」であり、対立しているやくざたちは「この喧嘩、俺に預けちゃくれまいか」という申し出を断ることができない。調停を断ることは、その業界からの追放を意味するからである。
 だが、このような「調停」を重んじる政治文化は欧米社会にはない。これは「ない」と断言してよいだろう。『ゴッドファーザー』(1972年)で引退したヴィトー・コルレオーネ(マーロン・ブランド)が跡を継いだ息子のマイケル(アル・パチーノ)にギャング政治学の要諦を伝える場面がある。ヴィトーはきっぱりと「調停を持ちかけてくる者が裏切り者だ」という知恵を息子に伝える。『ギャング・オブ・ニューヨーク』(2002年)はアカデミー賞10部門にノミネートされ、マーチン・スコセッシにゴールデングローブの監督賞をもたらした作品だが、二つのギャング団が二世代にわたってひたすら殺し合いをするだけのこの映画には一人の調停役も出てこない。「それぞれの同じ程度の不満を抱くところで妥協して、平和的に棲み分けをしたらどうか」と提案をする人間がいないのである。「ゼロ・トレランス」である。
 僕自身は明らかに「調停型」の人間である。原理的に正しいことをひたすら主張するということをしない。もちろん自分の意見は持っているが、それを他者に無理押しすることをしない。「わかって欲しい」と、袖をつかんで懇請はするが、それ以上のことはしない。相手を論破することよりも、その人とも「共生」できるニッチを探す。これはたぶん欧米的な知性がほとんど興味を示さない作業である。
 
 自分の話ばかりしてしまったが、ルブランさんは僕に興味を持ってくれた例外的なフランス人である(長い人生で、僕の脳内に興味を持ってくれたフランス人はルブランさんで二人目である)。これは希有なことだと思う。
 ルブランさんは山田洋次監督について長い評伝を書いているけれど、その中で山田洋次が「体制的な人間だ」という否定的評価に対して、「彼は、ほかの映画人のように衝突するという方法を選ばなかった。むしろもっと巧みなやり方を好んだ。」(13頁)と書いている。それは「際立っていて容赦のない意見ばかりが幅をきかせる時代」においては例外的なありかただが、それもまた一つの深い人間についての見方なのだ、と。
 ルブランさんが僕に興味を持ってくれたのも、たぶんそれと似た理由からだと思う。僕もまた「衝突するという方法」をできるだけ避けるように生きて来た。「容赦のない意見」を突きつけることをしないようにした。それは、欧米的知性からは「あいまい(flou)」で「不鮮明(vague)」で「不正確(imprécis)」な態度に見えるだろう。でも、それもまた人間の知性の一つのありようなのだということをルブランさんは理解していたのだと思う。
 クロード・レヴィ=ストロースはかつて『野生の思考』において、マトグロッソに暮らすインディオたちの世界観と人間観にもまた固有の体系性と人間的尊厳があることを強く訴えた。ヨーロッパ人と同じように、インディオたちもまた自分たちのうちには「人間生活が持つことのできるすべての意味と尊厳が凝縮されていると堂々と宣言してきた」のである。その相対的な優劣を論うのは無意味なことだし、ましてやそれらのうちの一つを取り出して、そこに「人間なるもののすべてが潜んでいると信じるためには、よほどの自己中心主義と愚鈍さが必要である」と書いて、レヴィ=ストロースはヨーロッパの自己中心主義に鉄槌を下した。
 ルブランさんの仕事もたぶんその流れにつながるものではないかと僕は思う。ルブランさんは山田洋次監督のうちにも、僕のうちにも非ヨーロッパ的な知性と感性を感じ取ってくれた。
 僕からの感謝の気持ちを受け取って欲しい。