「組合」という語は、その語義が熟知された、いささか「時代遅れ」の用語のように思われている。でも、ほんとうにそうなのだろうか。
共同体にはいくつかの種類がある。地縁、血縁集団のような、人がそこに産み落とされて、そこから出ることができない集団を「共同社会(Gemeinschaft)」と呼ぶ。自然発生した社会集団であり、成員たちは有機的に結合しており、集団の存続そのものが集団の存在理由とされる。
対義が「利益社会(Gesellschaft)」である。近代国家や営利企業がこれに当たる。利害関係に基づいて人為的に作られた集団で、成員たちは別に感情的に結びついているわけではなく、互いを手段として利用する。
「組合」はそのどちらでもない。英語のassociation 、ドイツ語のGenossenschaftの訳語であるが、日本でも「講」とか「仲間」という組織体は近世から存在していた。「伊勢講」「富士講」のような宗教活動もあり、「頼母子講」「無尽講」のような相互扶助のためのものもあった。集団の目的が明示されていること、掟を守ることを誓約すれば誰でも加盟できること、自由意志で脱盟できること、などなどがその定義だけれど、最もたいせつなのは「公共」を豊かにしようとする意志だと思う。
近代市民社会は、市民一人一人が、進んで私権の制約を受け容れ、私財の一部を供託することで立ち上げられた「公共」である。原型は中世ヨーロッパの村落共同体の「共有地・入会地」である。村人たちはそこで自由に放牧し、狩猟し、果実や薪を採ることができた。コモンが広く豊かであれば、個人資産が貧しくても、豊かに暮らすことができた。
社会の豊かさは個人資産の総和で決まるのではない。少数の者が天文学的な個人資産を占有し、後の人は極貧という社会を誰も「豊か」とは呼ばない。社会の豊かさは「コモン」の豊かさで測られる。組合は「コモン」を豊かにすることをめざす。そういう共同体が標準的なものである世界に私は暮らしたい。
(「ワーカーズコープ」2026年1月6日)
(2026-02-02 09:13)