日中関係の緊張が高まっている。この原稿を書いているのは2015年の12月下旬だが、本が出る頃には時局はまた変わっているだろう。
高市早苗首相の「台湾有事発言」から始まった日中関係の悪化は、中国総領事の暴言、中国人観光客留学生への渡航自粛、水産物の輸入禁止、低レベルの経済制裁、公海上での軍事的示威、空自機へのレーザー照射・・・と段階をふんでエスカレートした。首相が発言を撤回し、失言を謝罪するまで中国の対日圧力はこのまま加圧されてゆくだろう。
中国政府の圧力について「カードを切る」という比喩がよく使われるけれど、実際に行われているのは「カードを切る」というようなデジタルな切り替えではなく、「ボリュームを上げる」というのに近いアナログな加圧である。つまり制裁には無限の選択肢があるという意味である。
今、レアアースは輸出許可が下りるまでこれまでより時間がかかっているそうであるが、これが「アナログな加圧」である。遅れが一週間になり、ひと月になり、半年になり、一年になる頃には、日本の自動車産業も電子産業も壊滅的な被害を受けることになるだろう。
中国はこの「アナログな加圧」については豊かなノウハウの蓄積がある。よく知られている通り、中国では治安維持予算が国防予算を超えて久しい。つまり、中国政府は外敵の侵攻のリスクよりも、国内で反政府運動が起きるリスクの方を高く査定しているということである。だから、国民監視の技術が発達する。中国の国民監視システムは世界最高レベルにあり、世界各地の独裁政権に「パッケージ」で輸出されている。
その中に「社会的信用システム」という監視技術がある。国民全員に「社会的信用スコア」が配点されている。政府の政策に賛同し、ネットで習近平を絶賛するような国民は高い信用スコアが得られる。逆に、共産党を批判をしたり、文化大革命や天安門事件や新疆ウイグルの民族運動に言及したりした国民には低スコアがつけられる。
低スコアだからと言って、いきなり逮捕投獄拷問というようなハードな処罰はされない。ただ、外国旅行の申請が通らないとか、ホテルや列車の予約が取れないとか、ネットがなかなか繋がらないいうようなテクニカルなストレスがかけられるだけである。ソフトな拷問である。ただし、この拷問からは主体的に逃れることができる。ネットで習近平を絶賛し、通販で毛沢東全集を買い、中国共産党に入党申請をする・・・というような「面従腹背」行動をすればスコアを上げることができる。
そこが悪魔的な仕掛けである。別に中国共産党は14億の国民が心から独裁者に服すことを求めているわけではない。「独裁者に服すふりをする」ことを求めているのである。「心からの忠誠」を獲得するためには膨大な洗脳コストがかかる。「上に政策あり、下に対策あり」と言われるように、中国人は権力者に従いはするけれども、権力者を信じてはいない。だから、「反権力的なそぶりを見せると処罰されるが、権力者に阿ると『いいこと』がある」というわかりやすい利益誘導をする。
私が言いたいのは「中国はアナログな拷問術についてはノウハウの歴史的蓄積がある」ということである(「則天武后以来の」と言ってもいい)。日本人は「真綿で首を絞められる」というのがどういう感じのことなのかを、これからゆっくり味わうことになるだろう。
私はこの中国のやり方は「ロジカル」だとSNSに書いた。別に中国の対日強硬姿勢は感情に駆動されているわけではない。東アジアの地政学的布置内での中国のステイタスを確保するという国家目的に沿って、淡々と高市首相に発言の撤回を求めているだけである。だから、今のところ「日本政府」や「日本人全員」には批判の矢は向けられいない。「反日感情」にドライブされた政治行動なら、中国国内で在留日本人や日本企業への物理的な攻撃が始まっていいはずだが、それはまだ抑制されている。それはさしあたり「標的は首相ひとり」だからである。首相が失言を撤回して、謝罪し、辞職すれば、それで中国は退く。そういう「終わりまでのプロセス」があらかじめ開示されている。そのことを「ロジカル」だと私は書いたのである。
それに対して、高市首相のやり方にはロジックがない。発言が政府与党内でも当惑をもって迎えられたので、すぐに政府は「日本政府の立場はこれまでと変わっていない」と言って火消しを試みたが、首相は議事録からの発言の削除を拒否した。だが、どう考えても、高市発言は「これまでの日本政府の立場」から大きく踏み外したものである。首相は「中国が台湾に武力侵攻したら、日本は自衛隊を派兵して、中国と戦う可能性が高い」と言い切ったのである。
高市自身はこれまで「内輪のパーティ」でこういう言葉づかいで威勢のいいことを言って、万座の喝采を浴びて来たという成功体験があったのだろう。その勢いでつい「それを言うといつも大受けする決まり文句」を口走ってしまった。軽率な発言である。一国の総理大臣が国会答弁で口にしてよい言葉ではない。「内輪のパーティ」と公式の場の区別がつかない人間は総理大臣の器ではない。
私のSNSでの発言を読んで、「環球時報」からインタビューの申し出が来た。「環球時報」は中国共産党の機関紙である。「人民日報」の姉妹紙で、発行部数は200~300万部。Global Times という英語版も出している。
私にオファーが来たのは「環球時報」の記者の説明では「中国の対応はロジカルだ」と書いたからである。高市首相を批判している言論人はもちろん日本国内にたくさんいるが、中国のロジックについて言及した人はあまりいなかったらしい。でも、「中国のロジック」がわからなければ外交交渉のしようがない。
私はこういう場合には「相手の立場になって考える」ことにしている。これはどの国が相手でも同じである。アメリカの場合なら、上司から「日本から取れるだけのものを取るにはどうしたらいいか、明日までに報告書を出せ」と命令されて徹夜してレポートを仕上げた国務省の小役人のつもりになって考える。中国の場合なら、やはり外交部の小役人のつもりになって、「中国のメリットが最大になり、リスクが最少になる日中関係」について考える。この作業はやってみるとわかるけれど、けっこう楽しい。同じ資料でも、立場を変えると見え方が変わる。歴然と変わる。それまで気づかず見過ごしていた細部の意味がいきなり際立ってくるということがある。
例えば、「日米安保条約をアメリカから廃棄してくる」ことは日本政府としては「できるだけ考えたくないこと」である。考えたくなから考えない。でも、現実化する可能性はゼロではない。アメリカはもう「世界秩序を支えるアトラス」の役割はしないと先日トランプが宣言したる。高市首相の台湾有事発言についてインタビューされた時には「同盟国は友人ではない。あいつらは人のすねをかじるばかりだ」と言い放った。そして、習近平はスマートな統治者であり、私たちはよい友人だという中国指導者を絶賛する言葉でインタビューを終えた。この日中の対立でトランプは日本の味方をする気はない。
中国とアメリカの「G2」体制で世界を二つの勢力圏に分割して、アメリカは「西半球」を取り、中国は「東半球」を取る。このアイディアはトランプの創見ではない。スペインとポルトガルは1494年にトルデシリャス条約を結んで、セネガル沖の子午線で世界を二分割して、それぞれの勢力圏と定めたことがある。トランプが構想しているのはおそらく「21世紀のトルデシリャス条約」のようなものだろう。
この構想では日本も韓国もフィリピンも、アメリカの東アジアにおける同盟国は中国の勢力圏に収まることになる。その代償として、トランプが中国に要求しているのは、アメリカが自国の「裏庭」である中南米では何をしても文句を言うな、ということである。
今トランプはベネズエラを属国化するつもりでいる。ベネズエラの石油埋蔵量は303億バレルで、世界最大である。ベネズエラを抑えればもう中東に用はない。エネルギー調達コストを一気に軽減できるし、ホルムズ海峡を通るタンカーのための安全確保も必要なくなる。東半球の在外米軍基地が撤収されれば、143万人の常備軍を大幅に「効率化」することができる。
今ホワイトハウスでAI軍拡のアイディアを推進しているのはおそらくイーロン・マスクのような「テック・ジャイアント」たちだと思う。彼らは「これからの戦争はもう人間がするのではない、ドローンとロボットと無人戦闘機と無人艦船が通常兵器での中強度戦争を担い、戦略的なレベルでは敵国の軍事ネットワークをハッキングして指揮系統を混乱させれば、無血で戦勝利できる」というような話をトランプの耳元で吹き込んでいるに違いない。兵士はもう要らない。マシンとオペレーターがいれば戦争はできる。テック・ジャイアントたちが提示しているのはそういう新しい戦争観だろう。私が国防省(今は「戦争省」に改称されたが)の小役人だったら、この新しい戦争観に飛びつくだろう。常備軍を減らせば人件費コストを大幅に削減できる。なにより常備軍削減は合衆国憲法を尊重することを意味するからである。
ご存じない方が多いと思うが、合衆国憲法は陸軍については「常備軍を持たない」と規定している。日本のメディアはまずこのことに触れない。知っていて隠しているのか、もともと知らないのかわからない。だが、現実と憲法の間に乖離があるのは、日本国憲法九条だけの話ではないのである。
合衆国憲法は第1章第8条12項において、「陸軍を募集し維持すること」を連邦議会の権限としているが、こんな但し書きが付いている。「ただし、その目的のための資金の充当は、二年の期間を超えてはならない。」陸軍維持のための国費の支出は単年度限り。「常備軍を持たない」という意味である。
この条項の制定過程についてはハミルトン、マディソン、ジェイの『ザ・フェデラリスト・ペーパー』に詳細が記してある。フェデラリストたちは強力な連邦政府は常備軍を持つべきだという立場であったが、憲法制定過程で常備軍は「自由の敵」であるという州権派との論争に勝ち切れず、この妥協的な憲法条文をやむなく受け容れたのである。
ハミルトンはこう記している。「憲法案の条文からいって、常備軍を設置することができると推論することは(かりに不可能ではないとしても)疑問が多いし、不確かといわざるをえない。」(『ザ・フェデラリスト』第八篇)
だから、AI軍拡に伴う陸軍常備軍の縮減はトランプやヘグセスの独断暴走ではなくて、合衆国憲法の「正しい解釈」への回帰なのである。なんと。
だから、そのうちアメリカが日米安保条約の廃棄を通告してくる可能性はあると私は思っているのである。日米安保条約は締結国の一方が通告すれば一年後に自動的に廃棄される。だが、日本の政治家も官僚も政治学者も、「日米安保条約廃棄後」については何も考えていない。それが「最悪の事態」なのである。
「最悪の事態」というのは台湾有事のことではなくて、台湾有事が起きてもアメリカが「来援」するどころか「東アジアのことについてはお前たちがなんとかしろ」と言って、背中を向けて立ち去り、その後に自前の国防戦略を持っていない日本が呆然と取り残されるという事態のことである。
どうして「最悪」かと言うと、その場合、人々がすがりつく先が自衛隊しかないからである。国防について多少とでも実践的な知識と技術を持っているのは自衛隊だけである。「これからどうしたらいいでしょう」とすがりつかれたら、自衛隊としても「とりあえず憲法九条を廃棄して、国家予算の半分ほどを国防費に充て、徴兵制を施行し、治安維持法を制定して、特高を復活させてください。話はそれから」としか答えようがあるまい。参照すべき国防戦略として日本人は大日本帝国のそれしか知らないのだから、仕方がない。
こうして日本は周囲のすべての国に不信と嫌悪のまなざしを向ける、ハリネズミのような武装国家、つまり、「金のある北朝鮮」になる。そして、その時に、「これって、もしかしてオレたちの理想の国家なんじゃないの」と思わず笑みを漏らす人が国民の多数を占める...、というのが私の想像しうる「最悪の事態」なのである。(『一冊の本』、2025年12月31日)
(2026-02-02 09:07)