邪悪なものが存在する

2025-12-24 mercredi

 「悪について」という論題で往復書簡本を作っている。相手は宗教二世の編集者である。世界は邪悪なものに満ちているということは孤立した信仰集団にとっては自明のことである。彼もまたそのような世界観を深く内面化していた。でも、成人後に信仰を捨てた。長く一緒に本を作ってきたが、そんなきびしい前史を抱えた人だとは知らなかった。
その彼が「悪とは何か」についてできるだけ根源的に考えてみたいというので書簡を取り交わすことにした。次便では「悪は存在する」という論件を扱う。
 長く生きてきて「邪悪なものが存在する」ということは経験的に確信できる。それは人間の心の中にある。ただ、「自分の中には邪悪なものがある」と感じられる程度の邪悪さなら放っておいてもそれほど非道なことはしない。いや、することもある。強制されたり、付和雷同して「不本意ながら悪をなす」ことはある。でも、それは心に深い傷を残す。PTSDで苦しむのは、そういう人である。
 一方、世の中には自分が邪悪な人間であることを知らない人がいる。ふだんは「ふつうの人」なのだが、「今は何をしても処罰されない」という条件が与えられると、いきなりすさまじい攻撃性を発揮する。人を傷つけ、人がたいせつにしているものを破壊することに愉悦を感じ、人の痛みに何の共感も覚えない人がいる。
 そんな人たちも「法の支配」が有効で、罪を犯すと処罰される環境が整えば、「ふつうの人」に戻る。「無法状態」においてなした邪悪な行為について、彼らは悪夢の断片程度の記憶しか持たない。このタイプの人が一番怖い。彼らは邪悪なふるまいの「製造責任」を引き受ける気がないからである。
 昔の人はあらゆる集団に一定数の「邪悪な人」が存在することを前提に制度を作った。世界は悪に満たされているという信仰にも根拠はある。
(信濃毎日新聞 12月5日)