どんな媒体に寄稿を頼まれても、好きなことを書いている。講演を頼まれても好きなことを話す。それで腹を立てる人もいる(いるどころではない)が、心にもないことを口にすることはできない。
別に私は生来「正直者」であったわけではない。若い時はふつうに嘘をついて、人を欺いて生きて来た。でも、ある時に「正直に生きよう」と決意した。30歳くらいの時だったと思う。研究者として生きる決意をしたからである。
研究者は嘘をつくことが許されない。いや、前言撤回。嘘をつく研究者もまれにいる。でも、知らないことを知っているふりをしたり、理解できないことを「理解するに値しない」と言ったり、おのれの私見を「周知のように」と偽ったりしていると、そのうち研究者として生きるインセンティブが失われる。
研究者というのは、「知らないこと」を知りたいと願い、「理解できないこと」に触れると心が震え、私見を伝えるために道行く人の袖をつかんで「お願いだからわかって」と懇請するような人間のことだと私は思っている。私一人がそう思っているだけで、一般性を要求しないけれど、私はそう思ったのである。それからできるだけ正直な人間になろうと努めてきた。
正直な人間は「理に合わないこと」に遭うと「アラーム」が鳴動する。「理に合わない」のは、出会ったものそのものが理不尽で不条理なものである場合もあるし、私自身の知的枠組みが小さくて、その対象の大きさを受け容れ切れない場合もある。後者なら、私の知的枠組みをいった解体して、再構築する必要がある。研究者というのはこの作業を繰り返す生き物のことだと私は思う。
だから、「理に合わないこと」に対する感受性をできるだけ高く設定しようとしている。誰よりも先に「理に合わないこと」に感応するのが研究者の責務だろうと思うからである。「炭鉱のカナリア」のようなものだ。
「炭鉱のカナリア」は坑道にガスが発生すると最初に死ぬ。ということは、研究者は世の中に毒が充満し始めた時に「まず死んでみせる」ことが本務だということになる。そうなのかも知れない。最近本気でそうかもしれないと思うようになってきた。それくらい日本社会の空気が汚れている。
だが、私は研究者であると同時に武道家でもある。武道家の場合は「なかなか死なない」のが手柄である。柳生宗矩は『兵法家伝書』で「座を見る心 機を見る心」のたいせつさを説いている。
「一座の人の交りも、機を見る心、皆兵法なり。機を見ざれば、あるまじき座に永く居て、故なきとがをかふゞり、人の機を見ずして物を云ひ、口論をしいだいて、身をはたす事、皆機を見ると見ざるとにかゝれり。」
いなくてもいいところに長居したせいで筋違いの言いがかりをつけられたり、言わなくもいいことを口にしたせいで諍いを起こし身を滅ぼすことを宗矩は諫めている。武道家は空気が汚れたところには立ち寄らない。そもそも「用事がないところには行かない」というのが武士の嗜みである。
私のようにこんなコラムで言わなくてもいいことを言って、さんざん人を怒らせたあげくに「カナリアになって死ぬ」などというのは武道家としては道に外れた行いである。さて、正直に生きるべきか、身を滅ぼすリスクを負っても言いたいことを言うべきか。よくわからない。仕方がないので当面は「正直な武道家」といういささか座り心地の悪い生き方を続けるつもりでいる。
(週刊金曜日、12月10日)
(2025-12-24 07:44)