「日本の食料政策について」という題での寄稿を依頼された。
私はフランス哲学・文学研究と武道が専門の人間で、農業についてはまったく不案内である。生まれてからずっと都会に暮らしていて、土に触れる機会のなかった人間である。にもかかわらず、そういう人間に「農業」や「食料」についての寄稿依頼が続く。それはおそらく私が「農業の専門家が決して言いそうもないこと」ばかり言っているからだと思う。そして、それが農業にかかわる人たちにある種の共感をもたらしている(らしい)。
私は「農業をもう一度日本の基幹産業に」と訴えている。そんなことを言う人はたしかに他にはいないと思う。ただ、誤解して欲しくないけれど、ここでいう「基幹産業」というのは経済統計的な意味での「基幹的」ではない。そうではなくて、土地を耕し、種をまき、収穫物を享受する生き方を支えてきたものの考え方を「基幹的」な土台として、その上に社会は構築されるべきだという意味である。
いま農業が日本のGDP全体に占める割合は1%である。農業従事者は111万人。前年比5万人減。平均年齢は69.2歳で高齢化が進んでいる。これから若い人の組織的な参入がなければ、遠からず日本から農業という産業分野そのものが消えてしまうだろう。私はこれを止めなければならないと思っている。
今日本の食料自給率は38%(東大の鈴木宣弘教授によると実際には10%を切っているそうだが)。諸外国の数値を見ると、カナダ204%、フランス121%、アメリカ104%、ドイツ83%、イギリス58%、中国70%、韓国44%。先進国の中でも圧倒的に低い。国土が肥沃で、雨量が多く、植物相・動物相が多様という、きわめて農業に適した風土に恵まれている日本が例外的に食料自給率が低いのはどういう理由によるのだろうか。それは日本の農業政策が「政治」ではなく「経済」に引きずられて決定されているからだと私は思っている。
経済というのは「ビジネス」のことである。平たく言えば「それは金になるのか?」という「ものさし」でこの世のすべてのことの価値が考量できるという考え方のことである。
私が別にそれが「悪い」と言っているわけではない。「それは金になるのか?」という問いはかなり広い範囲で「価値の度量衡」として有効である。私がいま書いているこのような文章でさえ、「お金を払っても読みたいと思われるもの」と「お金を払ってまで読みたいとは思わないもの」の間にはそれなりの質的な差がある。その「ものさし」をあてがうことで、私たちは「読まなくてもいいもの」ないし「読むと有害なもの」を視野から排除して、精神的負担を軽減している。
市場で付けられた価格と、その商品が持つ固有の価値の間には一定の相関がある。しかし、こんなところで経済学の基礎を語るまでもないのだが、ものの価値には「使用価値」と「交換価値」がある。ボートは「水に浮く」という「使用価値」は世界のどこでも、いつの時代でも変わらないが、「夏の終わりの湘南海岸」と「タイタニック号沈没間際」とでは「交換価値」が天地ほど違う。そして、市場が問題にするのは「交換価値」だけなのである。
食料の「使用価値」は誰にでもわかる。私たちはそれを食べて生きている。なければ死ぬ。安定的な食料供給が途絶えれば、奪い合いが始まり、殺し合いになり、そのうち全員が餓死する。にもかかわらず食料の「交換価値」は市場における需給関係で決まる。供給が多ければ価格は下がり、供給が減れば価格は上がる。その点で、食料は他の商品(自動車や洋服や携帯)と同じもののように見える。たしかに交換価値だけを見れば、食料と他の商品は同じように市場原理に従う。でも、仮に自動車や洋服や携帯の供給が全面的に途絶しても、私たちはそれで死ぬことはない。ただ「不便だなあ」と思うだけである。キューバは1960年からずっとアメリカによる禁輸措置の下にあるけれど、今も1950年代のアメリカ車を修理しながら使っている。自動車輸入なんて途絶しても「不便だなあ」で済む。でも、食料輸入が止まったら、私たちは餓死する。
食料の価値を「交換価値」でしか考量しない人(つまり食料の問題をもっぱら市場価格だけで論じる人)は交換という活動の意味を理解していない。しかし、現在の日本の食料政策はもっぱら経済を基軸に決定されている。あらゆる商品・サービスの存否は、その「使用価値」ではなく「交換価値」によって決定されるという偏った視点から政策は決定されている。医療や教育や社会福祉についても、政策決定者は「金になるか、ならないか」「費用対効果がよいか、悪いか」というビジネスの用語でしか語らない。
私はながく大学で教えてきたので、身に沁みてわかるけれど、政府が大学に言ってくるのは「交換価値の高い学生を育てろ」ということである。それに尽くされる。それを彼らは「即戦力」と呼ぶ。つまり、どんな低賃金でも文句を言わず、残業も休日出勤も厭わず、英語が話せてITに強くて、辞令一本で翌日から海外赴任を命じても唯々諾々と従うような「安くて使いでのある労働者」を大量生産して送り出せと命じてくる。「同じような能力を具えた求職者」が求人数の何倍も押し寄せてくるようにしておけば、能力の高い労働者を安い賃金で雇える(「君の替えなんか、いくらでもいるんだ」というのが雇用者の殺し文句であることは19世紀英国でも今の日本でも変わらない)。
私たち教師は学生たちの知性的・感性的な成熟を求めている。「次代を担える成熟した市民」を育てることが私たちの仕事だと思っている。だから、成熟をめざす若者たちは必ずしも「一部上場企業に就職することが人生の目標」というようなシンプルな夢を持たない。長く学生たちを観察しているとわかるけれど、医療や教育や司法のような「それがなくては集団が立ち行かないもの」への志向は学生の成熟度と相関する。成熟した学生は「自分には何が必要か」を配慮するのと同じくらい(あるいはそれ以上に)「この社会には何が必要か」について思量する。そういう若者たちは「金になるか、ならないか」よりも「世の中の役に立つか、立たないか」を考える。その仕事の「交換価値」より「使用価値」を重く見る。一日中ディスプレイに向かってキーボードを打ち続けるデイトレイダーが年収何億円稼いでも、カメラに向かってしゃべり続けるユーチューバーがフォロワー何百万人でも、彼らがいなくなっても誰も困らないという点では、自動車や洋服や携帯と変わらない。交換価値は高いが、使用価値はゼロに近い。
でも、医療者や教育者や法曹や宗教者は「いないと困る」。「集団が存立するために必須のもの」はアウトソースできない。自前で調えるしかない。明治維新の後に、日本語で高等教育ができる機関を立ち上げることに明治政府はきわめて熱心であった。そうしないと植民地にされるリスクが高いと考えたのである。これは賢明な判断だった。今日本の為政者は「高等教育を英語でやれ」「質の高い教育が受けたければ海外の大学に行け」と命じている(事実、自民党の世襲議員たちのほとんどは最終学歴がアメリカの大学か大学院である)。教育をアウトソースしろと言っている。「その方が教育予算の費用対効果がよい」と思っているからである。愚かなことである。
その愚かな人たちが日本の食料政策を決定している。彼らにはものの価値がわかっていない。集団が存立するために必要なものは自給自足が原則という基本的なことがわかっていない。農業は自給自足が原則である。「必要なものは、必要な時に、必要なだけ市場で調達すればよい」ビジネスマンの発想のせいで、コロナ禍のアメリカではマスクや防護服の在庫がなく、たくさんの市民が死んだ。必要なものが市場で調達できないことがあり、それで人が死ぬこともある。それを私たちはコロナから学んだはずではないか。
農業をもう一度日本の基幹産業に。これは市場からは決して出てこない要請である。だから、政治がそれを要請しなければならない。生き残るために必要なものは自力で調達する。食料の本質はその交換価値にではなく使用価値にある。こんな簡単なことをこの時代にまた訴えなければならないというのは、ほんとうはひどく恥ずかしいことなのである。
(2025-12-07 09:55)