『環球時報』から高市発言についてコメントを求められた。私が「中国の対応はロジカルである。感情的に反発すべきではない」とネットに投稿した記事を読んでのオファーである。
『環球時報』は中国共産党の機関紙である。そこに「高市首相の発言撤回と謝罪と辞任を求める」日本人として寄稿することにはベネフィットとリスクの両方がある。
ベネフィットは中国の相当数の読者に日中の関係正常化と東アジアの平和を願う私の意見を直接伝えることができるということである。リスクは中国共産党の日本批判の「ウェポン」として利用されるかも知れないこと、そして日本国内のネトウヨたちから「中国のスパイ」として罵倒されることである(こちらは確実)。
どのような行動にもベネフィットとリスクがある。ことは理非・真偽・善悪の問題ではなく、程度の問題である。今回のオファーについては「リスクよりもベネフィットの方が多い」と判断したので、かなり長い文を寄稿した。記者に私の真意を伝えるために補足的な情報を書き込んだので、長くなってしまったのである。だから、「記事にするときは『内田の真意が伝わる』とあなたが判断できたら、いくら短くしても結構です」とお伝えした。
問1:
内田さんのSNSを通じて、高市早苗首相に対する反対姿勢を感じ取ることができます。コメント欄にも多くの日本国民も高市首相に反対する立場を表明しています。内田さんご自身が高市首相に反対する主な理由は何ですか?
高市首相の言動について私はこれまで直接的に言及したことはほとんどありません。彼女の政治的発言は定型的で凡庸なもので、特段の興味をひかれなかったからです。しかし、首相となり、その言動がただちに日本の国益に影響する以上、目を離すことはできません。
トランプ大統領の来日に際しての異常なまでの「媚態」には私はつよい不快感を覚えました。しかし、今回の存立危機事態にかかわる国会答弁は「私とは考えが違う」とか「不快に感じる」といったレベルの出来事ではありません。これは日本の安全保障の根幹にかかわる「口にしてはならない言葉」だったからです。
日本国憲法九条は「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。/前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と定めています。平和主義を掲げた、理想的な憲法条項だったと私は思います。
しかし、東西冷戦の時代に、アメリカの強い要請に従って、日本は旧ソ連を仮想敵国とした「反共の砦」の一角を形成するために再軍備化しました。この再軍備化は日本政府が主体的に求めたものというよりは「アメリカの属国」としてやむなく受け入れたものです。
方針が変わったのは、第二次安倍政権の時です。2015年にいわゆる「安保法制」が国民のつよい反対を押し切って採択されました(私自身も国会前のデモに参加しました)。残念ながら、この法制によって、憲法九条が掲げた平和主義が空洞化され、集団的自衛権の行使が可能であるという新しいルールが採択されました。
安倍首相は日本が「戦争ができる国」になることを切望していました。そして、その願望に少なからぬ数の日本人が共感を寄せていたことに私は衝撃を受けました。経済力でも、文化的発信力でも、思想的な指南力でも、国際社会で存在感を失いつつあることの「焦り」が「軍事力で存在感を示す」というオプションを選ばせたのだろうと思います。
安保法制によれば、自衛隊出動が許されるのは、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと、又は我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」です。ここで「我が国と密接な関係にある他国」と書かれていいるのはむろんアメリカのことです。
存立危機事態と認められる状況について、歴代政府はいくつかの例示を挙げました。具体的には、
(1)ホルムズ海峡が機雷封鎖され、日本に向かうタンカーが通れなくなった場合
(2)北朝鮮が韓国や米軍を攻撃した場合
(3)紛争地域での邦人保護活動中の米軍が攻撃された場合
(4)米本土を標的とするミサイルが日本の上空を通過する場合。
これまで政府は存立危機事態の具体例として台湾有事について言及したことはありませんが、これはアメリカのいわゆる「戦略的曖昧さ」の政策に従ったものです。アメリカは仮に中国が台湾に軍事侵攻した場合に、台湾を守るために軍を出動させるか、させないかを「はっきりさせない」というかたちで中国を牽制してきました。
アメリカと台湾の間には国交がありません。大使館も置いていないし、同盟関係もない。「台湾関係法」(Taiwan Relations Act)というものがありますが、これは米中国交正常化に伴って国交を断った台湾とのそれ以後の関係を定めた国内法です。その第二条の「台湾に対する武力攻撃や脅迫は米国にとって深刻な懸念事項である」であるという文言があります。これが「戦略的曖昧さ」の法的根拠とされてきました。
しかし、高市首相はこのアメリカの「戦略的曖昧さ」を無視して、どういう場合に自衛隊と人民解放軍が戦闘状態に入るかの条件を明示してしまいました。当然、アメリカはこの発言を苦々しく受け止めたはずです。トランプ大統領が高市発言に対して発したコメントは「同盟国の多くはアメリカの友人ではない」という素っ気ないものでした。要するに「日本は同盟国だが、友人ではない。だから、高市発言のせいで日本が中国と関係が悪化したとしても、アメリカは日本の側に立たないし、両国を調停する気もない」という意味だと私は理解しています。アメリカの対中戦略を理解できない高市首相に対する「叱責」と解してよいコメントだったと思います。
そもそも、1972年の日中共同声明において、日本政府は台湾を「中華人民共和国の領土の不可分の一部」とする中国政府の立場を「十分理解し、尊重」すると言明しています。ふつうに読めば、万が一台湾が独立を宣言して、中国がこれを「反乱」とみなして「鎮圧」に向かった場合でも、日本政府は、これは「国家間の戦争」ではなく「内戦」であるとする中国政府の立場を「十分理解し、尊重する」という意味に解するしかない。
ですから、高市首相の台湾有事解釈に私は同意しません。台湾と中国の間で何かシリアスな問題が起きた場合もそれは法理的には「内政問題」であり、他国は干渉すべきではない。
台湾では2340万人の市民が自力で獲得した民主的で平和な社会に暮らしています。彼らの自由と権利は最大限尊重されるべきだと私は思いますし、そのためにも「反乱」や「鎮圧」というようなシリアスな事態が起きないことを私は切望していますが、仮にそれが起きた場合でも、諸外国にできるのは国際機関を通じた調停の試みと人道支援までだろうと思います。自衛隊の武力介入は、事態をさらに紛糾させ、東アジアの軍事的緊張を高め、日中の全面戦争をもたらしかねない「悪手」です。
この理路はアメリカにも理解できるはずです。1861年に南部11州がアメリカ合衆国からの「独立」を宣言した時、リンカーン大統領はこれを「反乱」とみなして、「鎮圧」しました。南部11州は「アメリカ連合国(Confederate States of America)を名乗り、憲法も国旗も国歌も持っていましたが、諸外国はこれを承認せず、南部の滅亡を座視しました。
もし、アメリカが台湾有事に軍事介入するとしたら(高市首相はそれを「高い可能性でありうること」だと信じているようですが)、それは「南部11州の独立は合法的であり、リンカーンの鎮圧は不適切であった」というふうに自国歴史を書き換えることを意味します。これをアメリカ国民が容易に受け入れることができるとは思われません。アメリカの「戦略的曖昧さ」は実は「アメリカも台湾についてどうしてよいかわからないでいる」ということの迂回的な表現だと私は理解しています。
最初の質問の答えだけで長くなってしまって申し訳ありません。ご質問の「私が高市首相に反対する理由」ですが、以上書いてきた通り、私は高市首相の国会答弁については、それが日本政府の従来の方針に反していること、国際社会のどの国もその発言を支持していないこと、中国との関係を悪化させて、外交的にも経済的にも文化的にも、日本国民に多大の損害を与えていること、そして、中国政府と中国国民のうちに日本政府と日本国民に対する不信感を扶植したことを根拠に、発言をただちに撤回し、これまで日本政府が守ってきた外交的節度を破ったことについて中国とに謝罪し、その責任をとって総理大臣を辞職することを求めています。
問2:
現在SNS上には「中国側は高市首相の発言に対して『過剰反応』だ」という見方もあります。これに対しては、どのように思われますか?中国の反応は過激だと感じられますか?
私は中国の反応を過剰反応だとは思いません。発言直後の薛剣駐大阪総領事による「汚い首は斬ってやる」という投稿は感情的なものだったのか、あるいは計算されたものだったのか、どちらか私にはわかりません。しかし、あの投稿が「高市発言は由々しい外交問題である」ということを内外に知らしめたことは確かです。もし、あれが「高市首相には慎重な態度を求める」という程度の穏やかなものだったら、日本政府も日本国民もことの重大さに気が付かなかったと思います。
事実、首相の国会答弁直後には、首相から思いがけない答弁を引き出した岡田議員自身も「まずいと思って、すぐ話題を変えた」と語っています。それは言い換えれば「話題を変えれば、たぶん外交問題にはならない」と思っていたということでしょう。国会中継の画面を見るとわかりますが、高市発言があった時、後ろの席にいた茂木外相と林総務相は顔を上げてもいません。たぶん「ああ、高市さん、またいつもの話をしているな」くらいの受け止め方で聞き流していたのでしょう。
ですから、総領事の投稿は一時的な感情に駆られてなされたというよりは、「これは重大な事案である」ということを日本政府と日本国民に理解させるためになされたものだろうと私は解釈しています。事実、日本政府からの抗議を受けて、投稿は削除されました。もう政治的な目的は達した、という意味なのでしょう。
まず強い言葉で問題を提示し、次には経済的なプレッシャーを加え、最後は軍事的に威嚇する・・・というのがふつうの国の間で対立がエスカレートする順番ですが、中国政府はその順番の通りにカードを切っています。
中国が日本に軍事的な圧力を加えるということは「最後のカード」です。そこまでゆくと日本国民も恐怖と不安で、中国に対する敵意が醸成されて、国交正常化が一層困難になります。そうならないように、できるだけ早い段階で高市首相が非を認めればそれだけ日本がこうむる被害は少なくなる。日本の被害が受忍限度内のうちに問題を解決するように中国は外交をリードしていると思います。なによりも高市首相個人の発言だけに問題を限定して、日本政府や日本人全体を「共犯関係」に括り込まないという抑制的な配慮を示しています。
問題は、その中国側のシグナルが日本国民に伝わっているかどうかです。残念ながら、大手メディア、新聞やテレビを通じてこの問題を論じている人たちにはこのシグナルは十分には伝わっていないようです。あるいは気づいているが無視しているのかも知れません。
問3:
歴代の日本首相を振り返ってみると、中国に対してどのような立場を持っていたとしても、台湾問題に関しては非常に慎重でした。なぜなら、これは明らかに中国の内政問題だからです。しかし高市首相はこのレッドラインを踏み越え、台湾海峡問題に介入しています。
この傾向については、どのようなご観察をお持ちでしょうか。これは、日本の一部政治家がこれらの「レッドライン」を突破しようとしていることを意味するのでしょうか?このような傾向は日本国内でさらに蔓延される可能性がありますでしょうか。
高市首相が「レッドライン」を超えたのは、一つは資質問題であり、一つは政治的マヌーヴァーとしてだと私は思います。
資質問題というのは「軽率」ということです。台湾有事について、高市首相は総裁選でも今回と同じように具体的に「中国による台湾侵攻」事態を例示して、それが存立危機事態に当たる可能性が高いと述べています。おそらく支持者たちだけの「内輪の会」では、これまでもそのようなことを繰り返し述べて、支持層にアピールしてきたのだと思います。その「いつもの語り口」に慣れ過ぎていて、国会答弁でも軽率にも「内輪のパーティ」と同じような言葉づかいをしてしまったということだと思います。軽率というのは、そのことです。
二つ目の政治的マヌーヴァーというのは、高市首相は政権基盤がかなり脆弱であり、極右排外主義者たちは彼女にとって「最後の砦」であるので、その層へのリップサービスとして「言わなくてもいいこと」を言ってしまったということです。
しかし、このリップサービスは実際に効を奏し、高市支持者の中には「よくタブーを破った」「中国に対して強く出た」という点を評価する人たちが少なくありません。
日中関係が悪化することから利益を得る人は日本国内にはいません。しかし、政権基盤の弱い高市首相は、隣国に対する排外主義的な機運を醸成することで、国民の自分の政治的無能に向かう批判をかわすことが期待できます。とりわけ今は株価、国債、通貨の「トリプル安」で、高市首相はリーダーとしての見識、力量に疑問が突きつけられています。失政から国民の目を逸らし、おのれの政治的延命のために、レイシズムやゼノフォビアを利用するのは、無能な為政者の陥り易いピットフォールです。
問4:
それと同時に、SNS上には別の見方として、「中国側が高市首相への批判を『反日感情』を煽る」だという声もあります。この見方に対してはどのように思われますか?
質問の意味がよくわかりませんでした。「中国政府が高市首相への批判を利用して、中国国内での反日感情を煽っている」という意味でとりあえず理解して、お答えします。
国民感情は重要な政治資源ですから、どのような政治家も国民感情を利用しようとします。それは中国でも変わりはないと思います。ただ、感情は「取り扱い注意」の政治資源です。限定された政治目的のために利用するつもりでも、しばしば暴走して、制御不能になることがあるからです。
今年に入って、中国では先の戦争における日本軍の残虐行為を描いた映画が集中的に上映されました。中国国内における「反日機運」の醸成に中国政府が踏み込んでいるという見方がされています。
しかし、ご存じのように日本を訪れる中国人観光客の数は今年1月から10月までで820万人。前年同期比40%増です。このデータを見る限り、少なからぬ数の中国人が日本での歓待を素直に受け入れているように思えます。中国共産党に使嗾されたせいで、中国国民の間につよい反日感情がいま醸成されているというふうに私は思っていません。
それに上に書いたように、これまでのところ中国政府の批判は高市首相個人にだけ向けられており、日本政府・日本国民全体に対するものではありません。そうである以上、これを「反日的」なキャンペーンと解することは適当ではないと思います。
問5:
高市首相は台湾問題に介入し、台湾海峡の事情をいわゆる日本の「存亡危機」と強引に結びつけています。その一方で、彼女の世論調査における支持率は非常に高く、特に若者層では記録的な数値を付けています。中国国民の視点から見ると、これは大多数の日本国民の考えや選択なのかと思わざるを得ません。現在、日本民間に見られるこのような中国に対する「戦争情绪」にどう思われますか?これは真の世論ですか、それとも扇動された集団的な情绪ですか?
高市首相は「存立危機」発言のあとも高い支持率を誇っているとメディアは報じていますが、正直言って、高支持率の根拠が私にはよく理解できません。とりあえず、私の周囲には「高市発言を支持する」という人間は一人もいません。でも、それは私が「フィルターバブル」の中に閉じ込められているからかも知れません。
言っておかなければならないのは、日本の若者が自国の歴史についての知識が乏しいということです。特に日本の近現代史についての知識が欠けています。これは歴史修正主義者が歴史教育に干渉するようになったことの効果だと思います。日清戦争以後の日本のアジア進出については、これを否定的に記述する教科書に対しては「自虐史観」として集中的な攻撃がなされました。そのトラブルを嫌って、中学高校では日本の近現代史のために十分な時間をかけないという傾向が生じました。
いま、高市首相を支持して、「中国と一戦交える覚悟」などと口走っているのは確信犯的な右翼だけでなく、近現代史を知らない、あるいはネット情報からだけで日本の歴史を理解した気になっている人たちだと思います。そういう人たちが容易に「戦争情緒」に取り込まれてしまうというのはあり得ることです。
これはたしかに「煽動された世論」ではありますけれど、デマゴーグに煽動されて形成された「妄想的な世論」が現実を変えてしまうことは歴史上珍しくありません。日本でもいまそれが起こりつつあるのかも知れません。
問6:
内田さんのSNSからも、中国の外交政策に関心を持ち観察していることがわかります。例えば、高市首相の「事実を曲げ、真実を隠す」戦略は中国には通用しないと考えており、また中国には多くの反撃手段があり、段階的に日本を「苦しめる」だろうと見ています。
日本国民は外部の状況を本当に理解していますか?高市首相の関連発言がどれほど大きな問題を引き起こしたか本当に認識していますか?日本の一般国民は、内田さんが分析する「中国の論理」をどの程度理解し、受け入れることができますか?
中国には対日カードがいくらもありますが、日本は中国に対抗して切れるカードがほとんどありません。このまま中国からの経済的圧力が加圧されていったら、日本経済は深いダメージを受けるのは確実です。そのことを冷静な政治家や官僚やジャーナリストは理解していると思います。多くのビジネスマンもことの重大性を理解していると思います。
ですから、本来なら、ビジネス・エリートが率先して高市首相に発言の撤回と、日中関係の正常化を求めるべきなのですが、最初にそれを口にした人がまっさきに「高市支持者」たちの攻撃の標的になり、「中国のスパイ」というような非難を浴びることになることは確実です。それによって不買運動や攻撃的なメールや電話が殺到して事業に支障が出ることを彼らは恐れています。高市首相に発言を撤回して欲しい、けれどもそれを口にする「ファーストペンギン」にはなりたくない。そのジレンマの中に日本の財界人たちは今いると思います。
問題は大手メディア(新聞、テレビ)です。ここでは「中国に屈するな」という好戦的な言論の方が支配的です。これは「メディアが世論を誘導している」というよりはむしろ「メディアが世論に迎合している」という状態だと思います。自分で創り出した世論に自分で迎合するという愚かしいループの中に日本のメディアは巻き込まれている。
「中国の論理」を理解している一般国民がどれほどいるかというご質問ですが、全体の15%くらいいるかどうか、というところだと思います。
日本の世論はだいたいどんな場合でも「15%の妄想的な人たち」と「15%の冷静な人たち」と「残り70%の大勢に順応する人たち」によって形成されていると私は思っています。この70%はとくに自分の意見というものを持っていません。「こちらが多数派」だと思ったら「勝ち馬に乗る」。今はまだこの70%は「様子見」をしています。
この後、中国のプレッシャーが加圧してゆくにつれて、この70%が「冷静に現実を見る」ようになるのか、「逆上して妄想的になる」のか、私には予測が立ちません。
問7:
高市首相の誤った答弁によって引き起こされたこの外交危機について、彼女はどのように片付けるべきだと思われますか?
発言を撤回し、中国に謝罪し、総理大臣を辞職するのがことの筋目だと思います。
問8:
歴史を振り返って見ると、日本はかつて軍事拡張と隣国事務への侵略によって過ちの道を歩みました。現代の日本の一部政治家に見られる、「専守防衛」原則を突破し能動的に域外事務に介入しようとする傾向は、日本国内における歴史的教訓に対する何らかの「集団的忘却」を反映しているとお考えですか。その「忘れ」の背後にある社会心理とは何なのでしょうか。
私の父たちの世代(戦中派)は、自分たちが朝鮮半島や中国大陸で何をしてきたのか、知っていました。でも、その加害経験については沈黙を守りました。世代全体の「暗黙の了解」だったのかも知れません。それはおそらく彼らが「戦後生まれの子どもたちには、トラウマ的経験の記憶を伝えたり、罪責感を持たせたりしたくない。加害の罪はわれわれの世代がすべて引き受けて、子どもたちには無垢の状態で戦後民主主義の日本を生きてもらいたい」と願っていたからだと思います。
私の父も岳父も中国で敗戦を迎えました。そして幸い生きて帰ってきました。自分たちが中国でどのような罪深いことをしてきたのか、そして敗戦の時にどのようにして許されたのかを二人とも記憶していました。でも、それについてはほとんど何も語りませんでした。わかっていることは、父も岳父も1972年の日中共同声明のあとすぐに日中友好協会に入会して、日中友好のために献身的に尽くして余生を送ったということです。
父は中国からの留学生の身元引受人となり、家を借りる保証人になり、就職を世話し、お金を貸しました。母がなぜ縁もゆかりもない中国人のためにそんな世話をするのか父に問いただした時に、父は「中国には返しきれない借りがあるからだ」と答えました。
その「借り」の中身については父は何も言いませんでしたが、戦中派の集団的な沈黙の意味は子どもにも何となくわかりました。私たちはいわば「言葉にすることができない経験」を遺贈されたのです。
「歴史的教訓に対する集団的忘却」が症状として現れたのは、1990年代以降、戦中派の人たちが社会の第一線から引き、鬼籍に入るようになってから後の話です。「南京大虐殺はなかった」「日本が植民地を解放したことにアジアの人々は感謝している」というようなことを戦争経験のない世代の人たちが言い出した。少し前ならこんな発言は戦中派に「何も知らんくせに、わかったようなことを言うな」と一喝されたでしょうけれども、「一喝する人」がいなくなった。すると、その記憶の間隙をつくように歴史修正主義者が湧いて出てきた。その「社会心理」的な条件はヨーロッパにおける歴史修正主義の場合とそれほど変わらないと思います。
日本の戦中派の人たちが、自分たちが朝鮮半島や中国大陸やインドシナ半島や南方で何をしてきたのか、その加害事実について正確な証言を残しておいてくれたら、その後の歴史修正主義の猖獗をいくぶんかは抑制できたのではないかと悔やまれます。
いま好戦的な言動をする政治家たちやイデオローグたちを駆り立てているのは「屈辱感」と「嫉妬」だと思います。かつて植民地として支配した国、軍事的に蹂躙した国が、今は国力において日本を凌駕しようとしている。その事実を彼らは直視することができない。その屈辱感と嫉妬が抑圧されて、アジアの隣国に対する無根拠な優越感と攻撃性として症状化している。私はそう診立てています。
「失われた三十年」と呼ばれる日本の衰退の理由は、突き詰めて言えば、1945年の敗戦をもたらした理由を本格的に検証しなかったことにあると思います。国家の制度設計のどこに問題があったのか、どのような政策判断の誤りがあったのか、それをていねいに自己点検して、制度を補正し、政策の適否で吟味する知的習慣がなかった。
日本人がいまから敗戦の原点まで立ち還って、隣国と友好的に共生し、国際社会で名誉ある地位を占める「道義的な国家」になることができるかどうか、日本の未来はそこにかかっていると私は思っています。果たして、そのような国をかたちづくることができるかどうか、決して楽観はできません。しかし、それ以外に日本が目指す未来はないと思います。
最後に一つだけ補足的な情報を付け加えておきます。
Foreign Affair Report の最新号でブレジンスキー(CSIS顧問)は日本のアジアにおける地位について、次のような分析を下しています。
「日本はアメリカのグローバル・パートナーであっても、アジア大陸の外縁に位置する中国に対抗する同盟国ではない。こうした基本を押さえてこそ、アメリカのグローバル・パワー、中国の地域的優位、日本の国際的リーダーシップという三つのパワーが、ともに共存する環境を模索できるだろう。日本が軍事的な対米協調姿勢をあからさまに強化すれば、そうした共存路線が脅かされる。日本は極東におけるアメリカの浮沈空母であってはならないし、アジアでのアメリカの主要な軍事パートナーであってもならない。そうした日本の役割をアメリカが後押しすれば、アメリカをアジア大陸から切り離し、中国と戦略的合意に達する見込みを低下させ、ユーラシアの安定を強化するアメリカの能力を損なうことになる。」
「戦争情緒」に煽られている日本人にこのアメリカのリアルで怜悧なアジア戦略を理解できる程度の読解力があるといいのですが。
(2025-11-23 08:32)