『反知性主義者の肖像』文庫版あとがき

2025-10-28 mardi

『コロナ後の世界』が文庫化される。改題して、収録されている中でいちばん重要と思われる『反知性主義者の肖像』をタイトルにした。文庫版には「まえがき」と「あとがき」と森本あんり先生との対談がボーナストラックでついている。これは「あとがき」。 

 最後までお読みくださって、ありがとうございました。
 ゲラを通読してみて改めて感じたことは、ジャンルもトピックもぜんぜん違う文章を貫いているけれども、すべてに共通する特性があるということでした。それは居着かないということだと思います。少しだけ紙数を頂いたので、最後にちょっとだけその話をさせてください。
 「居着き」というのは武道の用語です。具体的には足裏が地面に貼りついて身動きができなくなることですが、広くは「定型的な言葉づかいしかできなくなること」、「常同的なふるまいを反復すること」、「心が硬くなること」を指します。武道では端的に「居着いたら死ぬ」と教えられます。もちろん現代社会でふつうに暮らしている限り、「居着いたから死ぬ」ということはありません。でも、「居着いたら生きる知恵と力が損なわれる」ことは確かです。「居着く」というのは、人間として成長することも変化することもなくなるということです。自分自身に釘付けになることです。
 武道では「勝負を争わず 強弱に拘らず」とまず教えられます。勝敗強弱や遅速巧拙の相対的な優劣を競うと「居着く」からです。勝負に負けると「負けに居着く」という感じはわかると思います。敗北感にうちひしがれた人はそれがトラウマ的経験になって、何があっても「負けた自分」にひきもどされてしまう。敗北の経験は人が変化することを妨げる。
 でも、それと同じように、「勝ちに居着く」ということもあるのです。勝つとそれが成功体験になる。人は成功体験を手離すことができません。現に勝っている以上、勝ち方を変える必然性はない。でも、「勝ったせいで成長が止まる」ということがあるんです。そして、たぶんそのことの危険に本人は気づいていない。権力が手に入り、財貨が増えて、社会的威信も高まるばかりという人には変わる必要がありません。でも、これが落とし穴なんです。だって、生命の本質は変化することだからです。変化を止めた人は生物学的には生きていても、人間的には死んでいる。
 ですから、僕は「アイデンティティー」という言葉には強い警戒心を持っているのです。「ほんとうの自分を見つける」とか、「自分らしく生きる」とか「自分探しの旅をする」とかいう時の「自分」ていったい何なのでしょうか? それを見つけたら、もう一生それを手放さないでたいせつに抱え込むような「何か」なんでしょうけれども、そんなものを見つけてどうするつもりなんでしょう。
 仏教の用語では「自分にこだわる」ことを「我執」と言います。仏道修行とは「我執を去って解脱を遂げること」です。武道修行も「我執を去って自在を得る」ことをめざしています。
 「アイデンティティー」というのは一つのアイディアです。たしかに、そういうものを探求することで実際に生命力が高まり、知性や感受性が活性化するなら、「方便」としては悪くありません。でも、逆にもし「アイデンティティー」のせいで、人々が分断され、対立させられ、対話の回路が閉じられるなら、そんなものはない方がいい。
 僕は骨の髄までプラグマティックな人間なので、「生きる知恵と力を高めるものは採用するけれど、生きる知恵と力を損なうものは採用しない」ことにしています。「その二つを見分ける基準は何だ」と改めて問われると「よく、わかんないけど、なんとなく」としか答えられません。「なんという雑な人間だ」とよく叱られますけれど、ほんとうに雑な人間なんだから、仕方がありません。ただ僕は一度固定的な原則を採用したら、それを死ぬまで貫くというような頑なな生き方をそれほどよいものだと思わない。
 もちろん、そういうのが大好きで、原理主義的に生きたいという人を止めたりはしません。でも、僕はそういう生き方はしない。「士三日会わざれば刮目して相待つべし」という言葉の通り、僕は「三日後には別人になっている」ような連続的な自己刷新をめざして生きています。もちろん、そんなことを言っても「内田はいつも同じことばかり言ってるじゃないか。どこが別人だよ(怒)」というご叱正があることは承知しております。でも、これでも毎日ちょっとずつ変化しているんですよ。
 植物が成長する時、葉の先端は太陽をめざしてやわらかく動き続けています。僕はその「先端」が「自分」だと思っています。絶えず「今の自分とは違うもの」になろうとする志向そのものを「自分」だと思っています
 変な考え方だと思われるかも知れませんが、僕の哲学上の師であるエマニュエル・レヴィナス先生はこの「絶えず自分とは別のものになろうとする志向」を「自己同一性(identity)」と差別化するために「単独性( ipséité)」と術語化しました。僕は「自己同一的」であることより、「単独者として生命と時間のうちにある」ことの方を選びます。それが「居着かない」ということだと僕は今のところ理解しています。もちろん、単独者はどんどん変化するので、そのうち今とはぜんぜん違うことを言い出すかも知れませんが、その時はどうぞご海容ください。
 「あとがき」に変な話を書いてすみませんでした。
 最後になりましたが、文庫化にご尽力くださった文藝春秋の池延朋子さんと巻末対談のお相手をしてくださった森本あんり先生のご厚情に感謝申し上げます。みなさんのおかげで本ができました。ありがとうございます。

2025年10月
内田樹