養老孟司先生との対談本のあとがき

2025-12-07 dimanche

あとがき
 みなさん、こんにちは。内田樹です。
 養老孟司先生との対談本を出すことになりました。養老先生との対談本は『逆立ち日本論』(新潮社、2007年)以来二冊目です。二冊の間には18年間のブランクがありますけれども、その間も養老先生とは定期的にお会いして、いろいろな話題でお話を伺っていました。先生との農業をめぐる対談は『「農業を株式会社化する」という無理-これからの農業論』(家の光協会、2018年)というアンソロジーに収録されています。
 それに養老先生には年に一度ご飯をご馳走になるという「習慣」があり、これは20年以上前に始まった行事で、今もずっと続いています。
 最初にお呼び頂いた時、集まった人たちの顔を眺めて、これはどういう集まりなんだろうと好奇心が湧きました。その時来ていたのは、僕の(あまり信頼性のない)記憶によれば、新潮社の担当編集者たちと養老先生の「虫屋」仲間、そして池田清彦、茂木健一郎、植島啓司、名越康文、甲野善紀といった方たちでした。隣の席にいた養老先生に「この方たち、先生、どういう基準でお選びになったんですか?」というずいぶんぶしつけな質問をしました。すると養老先生は破顔一笑して、「みんな野蛮人だということだろう」と答えました。なるほど。
 養老先生が「野蛮人」と呼ぶのは、たぶんできるだけ自分の手持ちの資源で眼の前の出来事の意味や理非を判断しようとするタイプの人間のことではないかと思います。出来合いの既成の理説に従って判断しない人です。
 「手持ちの資源だけで生きる人間」のことをクロード・レヴィ=ストロースは「ブリコルール」と呼びました。bricoleur というのはフランス語で「日曜大工」とか「器用人」という意味です。「ありあわせの素材とわずかな道具で、なんとかしてしまう人」です。家にある木っ端と大工道具だけで家具を直したり、車庫にある道具と部品だけで自動車の修理をしてしまう人がいますね、あれです。
 ブリコルールは彼の道具的資源をどのように集めるのかについて、レヴィ=ストロースはとても面白いことを書いています。計画的に集めるのではありません。だって、この先どんな仕事をすることになるのかわからないから。では、どうするのか。

 「彼の手持ちの資源はその潜在的可能性によってのみ規定される。つまり、ブリコルールたち自身の言葉を借りて言えば、それらの素材は『そのうちに何かの役に立つかも知れない(ça peut toujours servir)』という原則に従って収集され、保存されるのである。」(『野生の思考』)
 
 ブリコルールが「手持ちの道具」を作り上げるのは直感によるのです。歩いていると「何か」と目が合う。「これ、そのうち何かの役に立つかもしれない」と思ったら、背負った「合切袋」に放り込む。そうやって自分の「手持ち」を形成してゆく。レヴィ=ストロースはこういう考え方を「野生の思考」と名づけました。 
 養老先生が「野蛮人」と呼んだのは、この「野生の思考をする人たち」のことだと思います。そこで僕はひそかにこの「年に一度養老先生にご馳走になる会」のことを「野蛮人の会」と名づけました。毎年行くたびに新メンバーが加わり、南伸坊、加藤典洋、島田雅彦、ヤマザキマリ...といろいろな方より辱知の栄を賜りました。
 養老先生の「野蛮人」選択基準はたぶん権威を背負わないことだと思います。固有名で発言し、いかなる「学派」にも「党派」にも「宗派」にも属さない。
 たぶん養老先生が人を見るときに最も重く見るのが「権威を背負わないこと」「党派に属さないこと」「自分の言葉で話すこと」「原理・教義を語らないこと」なのだと思います。もし僕がその基準をクリアーしたので「野蛮人の会」に選ばれたのだとしたら、ほんとうに光栄なことです。
 本書を読むとわかりますけれど、僕が対談のときに「合切袋」から取り出してくるのは、小説、映画、音楽などなどなどなどまことに雑多な素材ですが、どれも「いつか何かの役に立つかもしれない」と思って記憶の貯蔵庫にためこんでいたものです。それを養老先生とお話をしているうちに 「そういえば、こんな話を思い出しました」と言って開陳することになります。
 この「そういえば、こんな話を思い出した(That reminde me of a story)」というのも、とても重要な知性の働きだと思います。
 この時に思い出すのは概念や理論じゃなくて、「一つの話(a story)」です。ひとまとまりの「お話」を思い出す。あるトピックについて話している最中に、そこに含まれている「何か」に触れた瞬間に、別の界域や別のレイヤーに「跳ぶ」ことがあります。それこそ僕にとっては対話のもたらす最大の愉悦なのですが、これは「跳ぶ」ことを面白がってくれる相手との対話でしか得ることのできないものです(時々いるんです。「雑談はそのくらいにして本題に戻りましょう」と悲しいことを言う人が)。養老先生ご自身も話がじゃんじゃん「跳ぶ」方ですので、この対談では二人ともに相手の話の中の片言隻句から「あらぬ彼方」に話が跳びっぱなしです。「話頭は転々として奇を究め」ということこそが対談の醍醐味だと僕は思っています。読者のみなさんにそれを楽しんで頂けたらうれしいです。
 最後になりましたが、お疲れのところ、何度も貴重な時間を割いて「賢者の話」をお聴かせてくださった養老先生のご厚情に改めてお礼を申し上げます。養老先生とのこの対話を企画してくださったKADOKAWAの小川和久さんのご苦労とご配慮にも感謝申し上げます。おかげで本ができました。

2025年12月
内田樹