『クライテリオン』のために、藤井聡、柴山桂太の両先生と「脱移民」を主題に鼎談しました。その中の、僕の冒頭部分の発言だけ収録します。続きは本誌でどうぞ。
僕が「日本は移民に耐えられないだろう」と書いたのは、今の日本は未熟で幼児的な社会なので、他者との共生は不可能だろうと思ったからです。こうした市民的に未熟な社会に移民が入ってくると、すぐに世論は外国人排斥に傾いて、極右政権ができる。僕はそれに対して危機感を感じて、野放図に移民を入れることに反対したんです。
今すでに三百八十万人の外国人が日本で暮らしています。これからもっと増える。人口の一〇%に達するのも時間の問題です。しかし、彼らをどうやって受け入れて、共生するのかについての議論は進んでいない。外国人が増えると社会不安が増大するのは、受け入れ側の日本人の市民的な成熟が足りないからであるというシビアな現実認識が欠如している。
外国人をめぐる議論は、人手が足りないとか、インバウンド・ツーリストが活発に消費するとか、もっぱら経済の問題として語られています。あとは不動産を取得しているとか、人種も言語も宗教も違う人間がたむろしていると不穏な感じがするといった感情レベルの話だけです。「言語も人種も宗教も生活文化も違う他者と共生するためにはどうしたらいいのか」という最も根本的な問題だけは誰も論じていない。
参政党の「日本人ファースト」という主張は剥き出しの「外国人排斥(xenophobia)」ですが、そこには「国際社会で名誉ある地位を得たい」という矜持のかけらもない。日本社会が不調なのはすべて「外から来る汚物」のせいだというの、19世紀末の近代反ユダヤ主義以来のきわめて危険な社会理論ですけれども、これに対して日本の有権者があれほど無防備であるところを見ると、日本人は幼児的なので、これ以上移民を入れる能力がないと言わざる得ない。
今回の特集テーマには「脱移民」という言葉がありますけれど、僕はこの言葉には留保をつけたい。移民の無原則な受け入れに僕が反対するのは、経済的な理由でも、政策的な理由でもなくて、端的に「日本人が幼児的だから」です。
このまま幼児的でいたいと日本人の過半が思うなら、例えば選択肢として「日本人には移民と共生できる能力がないから、移民を入れずに、同質性の高い〈日本人だけの国〉としてだんだん縮んでゆく」というものがあってもいい。国民の多くがそれを望むなら、そういう未来もあっても僕は仕方がないと思います。でも、それとは別に、「他者と共生できるだけの市民的成熟をめざす」という未来があってもいい。
でも、後の選択肢を選ぶためには「命がけの跳躍」が要ります。日本社会は伝統的に共感と同質性をベースにした「共感共同体」ですが、外国から来る人たちと共に暮らすためには「契約共同体」に制度を作り替えなければならない。共感もできないし、同質的でもない他者と、それにもかかわらず共生し、協働することができるためには、国をある種の契約共同体に切り替えるしかない。社会契約さえきちん守ってくれるなら、その人の人種も言語も宗教も生活習慣も「気にしない」という鷹揚な、というか「雑な」態度を取れる人間になるしかない。そこまで共同体の概念を広げていかないと他者との共生はできません。どこかで契約共同体に切り替えない限り、人口の一〇%が外国人というような社会を平穏に維持することはできません。果たして、その覚悟が日本人にあるのだろうか。僕はその点についてはきわめて悲観的です。
(2025-09-23 14:30)