みなさん、こんにちは。内田樹です。
『老いのレッスン』韓国語版をお手に取ってくださって、ありがとうございます。
本書は若い女性編集者との間で取り交わした「老い」を主題にした往復書簡です。
きっかけになったのは、本書の中でも取り上げられましたけれど、若い経済学者が日本社会の問題の「唯一の解決策」は「高齢者の集団自決」だと発言したことです。老人が社会の要路に居座り続けていることが日本社会の今日の不調の主因なので、老人たちには早く「消えて欲しい」と彼はメディアで繰り返し発言し、一躍メディアの寵児となりました。この発言を機に、日本のメディアではしばらく「世代間対立」の議論がうるさく語られました。2年ほど前のことです。
でも、2025年現在の日本ではこの「世代間対立」の論はすっかり廃れて、今は「日本人対外国人」の人種間対立に社会的危機の主因はあるという議論が大声で語られています(「日本人ファースト」を掲げた政党が先の参議院選挙で躍進を遂げたことは韓国でも報じられたと思います)。
老人と若者の間の利害対立であれ、日本人と外国人の間の利害対立であれ、国内に「二項対立」を持ち込んで、一方を「諸悪の根源」と名指して、それを排除すればすべての問題は解決するという考え方は「単純主義(simplism)」と呼ばれるものです。陰謀論とも親和性が高く、こういうタイプの考え方を人々が選好するような社会は、たしかに「危機的状況」にあると言ってよいと思います。今の日本社会はそういう意味では「危機的」です。
単純主義というのは、現実が複雑な時に、難しいことを考えるのが嫌なので、「敵」を設定して、それを排除すれば問題はすべて解決すると信じる心的傾向のことです。複雑な問題を単純な二項対立図式に落とし込んでくれるので、知的負荷が一気に軽減されます。「考えるのが面倒だ」という人にとってはたいへん魅力的な考え方(というより「考えない方」ですね、そんな日本語はありませんけれど)。
悲しいことですけれども、現代日本人は「複雑な問題を複雑なまま扱う」ということができなくなっています。すぐに真偽・理非・善悪の判定を下したがる。それを僕は「頭が縮んだ」状態というふうに診立てています。別に人間が劣化したとか、邪悪になったとかいうことではなく、「頭の容量が減った」のです。
簡単に結論を出せない複雑な問題については、未解決状態のまま静かに観察して、結論を急がない。そういうやり方を僕は推奨しています。
日本語では「中腰でいる」という言い方をします。韓国語に同じ表現があるといいんですけれど、なくても意味は分かりますよね。立つでもなく、座るでもなく、未決定の姿勢を続けるためには、それなりの筋力が要ります。それと同じことが知的営みにおいてもできる人のことを僕は「頭が大きい人」というふうに呼んでいます。
東アジアでは久しく「士大夫」の条件の一つは「器が大きい」ということでした。老子の言葉に「大方無隅 大器晩成 大音希聲 大象無形」というものがあります。「大きな四角には角がない。大きな器は焼き上がるまでに時間がかかる。大きな音は聴こえにくい。大きなものには形がない」という教えです。「大きい」ということに圧倒的な価値が付与されていた。それが東アジアの伝統的な人間観でした。僕はこの考え方に深く共感します。
単純主義は「小さく縮むこと」と「異物を含まず純粋であること」をめざすイデオロギーです。これは東アジアの伝統からすれば「鬼胎」と言ってよいでしょう。それでも近代を顧みると、中国でも朝鮮でも日本でも、単純主義的イデオロギーは間歇的に発症しています。でも、でも、この「病んだイデオロギー」が支配的になる時にはろくなことが起こらない。それは歴史が証明しています。
この本はそのような「諸悪の根源は・・・である」という頑なな思考停止に対して、「そんなことないよ。世の中いろいろなことがあるよ」と「頭をほぐす」ために書かれています。だって、単純主義に対して複雑主義を掲げて、「単純主義こそ諸悪の根源である」という図式を立ててしまうと、それって「単純主義の再生産」にしかならないでしょう。
単純主義は討伐する対象ではなく、治療の対象だと僕は思っています。病気を治すのは最終的には患者自身の「生きる意欲」であるのと同じで、単純主義者自身が「単純主義ってつまらないから、もうちょっと複雑にものごとを考えてみようかな」という「考える意欲」を自分で持ってくれること以外に治療法はありません。そして、そのためには「複雑にものごとを考えることは端的に楽しい」ということを自得してもらうしかない。それしか方法はありません。病人が「生きたい」と思うのは、「生きていると楽しそうだ」と思うからでしょう。それと同じです。
僕の書き物は、こう言ってよければ、「話を単純化しないで、できるだけ複雑なまま扱う」技術の実践例です。話が簡単な結論に導かれて「はい、おしまい」になりそうな気がすると、とりあえず「まぜっかえして」、脇道に逸れて、違う文脈の中に置き直して、なんとか「中腰」を維持しようとする。
そんなことをして何が楽しいのかと言われそうですけれど、これが楽しいんです。ほんとに。中腰を保っていると足腰の筋力がつくように、ややこしい問題を複雑なまま扱っていると「頭が大きくなる」のがわかるんです。喩えて言えば、いろいろな訪問客が次々来る家では、奥に通す客と門前払いを食らわせる客を急いで選別しないで、とりあえず「待合室」でお茶でも飲んで待ってもらう。そうなると「待合室」にはそれなりの広さが要る。「頭が大きい」というのもそれと同じ理屈です。
人間が考えることは、どれも(どれほど邪悪なものでも、愚劣なものでも)「そういうことを人間は考え出す」という貴重な情報を含んでいます。人間の脳裏に浮かんだことは、どれも吟味するに値する。僕はそう考えています。
脇道に逸れましたけれど、本書は「老人ははやく死ね」と言い放った若い知識人に対する老人からの一つの回答だと思ってくださって結構です。でも、僕の言いたいのは「あなたの言うことは間違っている」ではなく、「お若い方がそういうことを考えるのって、私には理解できるよ。だって、私も昔は若者だったから。善哉善哉」というものです。
老人には老人なりの理路があり、老人なりの思考の文法がある。そういうことを前面に押し立てて主張した著作って、たぶんこれまで存在しなかったと思います。あ、そうでもないかな。モンテーニュの『エセー』とかアナトール・フランスの『エピクロスの園』なんかはちょっとそういう感じがしますけど。というふうにあっという間に前言を撤回しても平気というのが「老人なりの思考の文法」の際立った特徴なんですけれど、この話は本書の中で繰り返し蒸し返されますので、お楽しみに。
長くなってしまったので、「まえがき」はこれでおしまいにします。どうぞ最後まで楽しく読んでください。
(9月16日)
(2025-09-16 17:55)