アメリカ抜きの日本の安全保障について

2025-08-25 lundi

『通販生活』の「トランプ特集」にこんな文章を寄稿した。書いたことを忘れていたら、原稿料の振り込み通知があったので思い出した。一昨日の「人権スコラ」でも似たような話をした。どうして日本の政治学者やジャーナリストは「日米安保廃棄の後に来る先軍政治」について想像力を行使しないのか、よくわからない。

 「アメリカ抜きの日本の安全保障について」
 というタイトルを書いたけれども、たぶんこのトピックについて真剣に考えている政治家も官僚も政治学者もいないと私は思う。いや、少しは考えたかも知れないけれど「真剣に」は考えていない。
 「アメリカ抜き」のというのは日米安保条約が廃棄された「後の」安全保障のことである。戦後80年間日本政府は「日米同盟基軸」だけにすがりついて、それ以外に安全保障政策について計量的に考えたことがなかった。これは「なかった」と断言してよいと思う。
 以前、ある高名な政治学者と対談した時に「日米安保以外の安全保障政策としては、どんなものが考えられるでしょうか?」と訊いたことがある。別に相手の見識を試したわけではなく、純粋に好奇心から訊いたのである。でも、その政治学者は絶句して、化け物でも見るような目で私を見ただけだった。なるほど、日本の政治学者の間では「日米安保以外の安全保障」が話題になることはないのだということだけはわかった。
 日米安保条約は締結国の一方が「解消」を宣言すれば、一年後に自動的に解消される。日本が米軍の抑止力に「フリーライド」しているとトランプ大統領は言っている。こんな片務的な軍事同盟はアメリカが損するだけだから、もう止めると言い出す可能性はある。
 日本のメディアは報じたがらないけれど、アメリカには共和党にも民主党にも日米安保廃棄論者はいる。代表的なのは共和党の下院議員だったロン・ポールで、彼は国連とNATOからの脱退も説いていた。当然日米安保の解消と在日米軍基地の撤退も。そういう政治家がいることを日本のメディアは報道してこなかった。だから、たぶんほとんどの日本人はアメリカ国内にそういう議論が存在することさえ知らないと思う。
 つまり、アメリカは「日本抜きの安全保障」について考えてきたが、日本は「アメリカ抜きの安全保障」については考えてこなかったということである。
 これは安保条約の解消というようなハードランディングではなく、アメリカが「段階的に日本の防衛についてのコミットメントを縮減してゆく時に日本には「アメリカのお慈悲を乞うて、縋りつく以外に打つ手が何もない」ということである。そして、それがまさに今の日本外交が置かれている状況だということである。情けない話だけれど、80年にわたる思考停止のこれが帰結なのだから仕方がない。
 アメリカが日本の国防は「自分で考えろ」と三行半をつきつけた後に何が起きるか。これはそれほど想像力は要らない。日本人が帰趨的に参照できる国防構想は「大日本帝国戦争指導部」のそれしかない。だから、日米安保廃棄に続くのは懐かしい「先軍政治」である。その予兆はもうあらゆるところで感知できているはずである。
(『通販生活』7月6日)