朴東燮先生が『日本辺境論』を書架から取り出して読みだしたらとまらなくなって、読み終えてすぐにエッセイを1篇書いてくれた。日本のことにも言及してくれているので、こちらに再録する。
宇宙ステーションの匂い
人間が活動できる空間の中で、おそらく最も「清潔」な場所は、国際宇宙ステーション(ISS)でしょう。地球から送り込まれるすべての物資は、最新技術を駆使して徹底的に除菌され、宇宙飛行士たちは厳格な衛生管理の下で生活しています。そこは、あらゆる汚染から隔離された、純粋性の砦のようです。しかし、実際にISSに滞在した宇宙飛行士たちの証言によると、そこは決して無臭のクリーンルームなどではないと言います。むしろ、「プラスチックの匂い、生ゴミの匂い、そして人々の体臭が混じり合った、決して快適とは言えない匂い」が充満しているというのです。
なぜでしょうか。外部からの微生物の侵入を極限まで遮断した結果、その閉鎖空間は、宇宙飛行士自身の体から放出される常在菌だけが均一に存在する、偏った生態系になってしまったからです。多様性が失われた世界では、特定の菌だけが繁殖し、独特の不快な環境を生み出します。純粋さを無理やり手に入れようとすればするほど、私たちは「純粋主義」という名の、別の種類の汚濁に陥ってしまうのです。この宇宙ステーションのジレ ンマは、私たちの社会や政治が抱える、ある危険な病理を象徴しているように思えてなりません。すなわち、「純粋」は美しくても、「純粋主義」は本質的に汚れており、暴力的でさえある、という逆説です。
純粋と純粋主義の致命的な違い
そもそも、「純粋」と「純粋主義」は似て非なるものです。純粋とは、あるがままの状態、例えば生まれたての赤ん坊の笑顔や、森の奥深くで湧き出る泉のような、流動的で生成されるプロセスの一断面を指す言葉です。それは「動中静」、つまり絶え間ない動きの中に現れる、束の間の静けさや調和の状態と言えるかもしれません。
しかし、「純粋主義」は、その美しい一断面を写真に撮って額縁に入れ、これが唯一絶対の真実であると宣言するイデオロギーです。それはもはや自らの根拠を疑うことをやめ、固定化された教義となります。そして、すべてのイデオロギーがそうであるように、純粋主義は、人生や世界の複雑で多様な土壌を無視し、物事を善と悪、純粋と不純、我々と彼ら、といった二元論に単純化する過ちを犯します。それは、美しい庭園から特定の花以外のすべての植物を「雑草」として根絶やしにしようとする、愚かな庭師の振る舞いに似ています。その結果、残されるのは生物多様性を失った、脆弱で不毛な土地だけです。
ブレーキなき暴走機関車:ナチズムの教訓
この純粋主義というイデオロギーが、一度暴走を始めるといかに恐ろしい結末を迎えるか、歴史は私たちに痛烈な教訓を残しています。その最たる例が、ナチス・ドイツの悲劇です。
「ドイツは世界最高の国家である」という自己幻想と、「現実には第一次世界大戦に敗北し、経済的にも苦しんでいる」というギャップを埋めるため、ナチスはある単純な「答え」を導き出しました。それは、「ドイツが真のドイツになれないのは、非ドイツ的なる不純物、すなわちユデア人が国民の中に混じっているからだ」というものでした。純粋なアーリア人種という神話を作り上げ、ユデア人をその神話を汚す「不純物」として定義したのです。
そして、その論理の帰結として、彼らは600万人ものユデア人を虐殺しました。純粋は美しいかもしれませんが、純粋主義は、このようにいとも簡単に、排除と差別、そして大規模な暴力へと繋がります。
ナチスの仮説が正しければ、ドイツ支配地域のユデア人がほぼ絶滅した時点で、「真のドイツらしいドイツ」が出現し、ドイツは絶頂期を迎えるはずでした。しかし、現実はどうだったでしょうか。戦況はますます悪化の一途をたどりました。自らのイデオロギーと現実との間に生じたこの巨大な矛盾を説明するため、困惑したナチスは、さらに奇妙な理屈をひねり出します。「スターリンもチャーチルも、すべてユデア人の手先なのだ」と。こうして、破綻した論理を糊塗するために、さらなる陰謀論が採用されました。純粋主義とは、一度走り出したら自ら止まることのできない、ブレーキの壊れた機関車なのです。
そして、ベルリン陥落が目前に迫った土壇場で、宣伝担当のゲーリング(あるいはゲッベルス)は、このすべてのアポリアを説明できる、究極の「最終解決」に思い至ったと言われています。それは、「ヒトラー自身が、ドイツを滅亡させるためにユデア人によって密かに送り込まれたスパイだったのだ」という驚天動地の解釈でした。これならば、すべてのつじつまが合います。この究極の自己欺瞞にたどり着いた彼は、ある種の安堵のため息をついて、その生涯を閉じたのかもしれません。純粋主義の論理的帰結は、かくもグロテスクで、自己破壊的なのです。
我が家は微生物のジャングルである
このような純粋主義への渇望は、なにも国家レベルの政治に限った話ではありません。実は、私たちの最も身近な生活空間にも、その影は忍び寄っています。
ノースカロライナ州立大学の応用生態学者、ロブ・ダン教授が著した『Never Home Alone』(日本語のタイトル:家は決して一人じゃない)は、その事実をスリリングに教えてくれる一冊です。彼と彼の同僚たちの長年の研究によれば、私たちが毎日暮らしている家の中には、なんと20万種もの生物(細菌、真菌、節足動物など)が共に生きているというのです。私たちの体から剥がれ落ちる垢や、食べ物の欠片、そして家そのものまでをも餌にする彼らにとって、人間の家は快適なすみかなのです。
この事実を知った時、多くの人はぞっとして、家中のものを徹底的に掃除し、消毒し、可能であれば無菌状態にしたい、と考えるのではないでしょうか。しかし、ダン教授は、そんなことは絶対に不可能であり、むしろ極めて危険な試みだと断言します。なぜなら、「家は生態系」だからです。
例えば、家や庭に殺虫剤を撒き、そこに生息する多様な生物を皆殺しにしたとします。すると、競争相手がいなくなったのを好機とばかりに、殺虫剤への耐性を獲得した特定の害虫が、我が物顔で繁殖を始めるかもしれません。あるいは、人体の表面にいる無害な常在菌を殺菌剤で根こそぎにしてしまうと、かえって競争から解放された病原菌が定着しやすくなることもあります。水道水を作る過程で、地下水にいる有益な微生物まで殺してしまうと、結果的に人間の健康に有害な菌が増殖してしまう、という皮肉な現象も報告されています。
つまり、私たちの身の回りにいる生物のほとんどは無害であるにもかかわらず、それらを「不潔」で「不純」なものとして排除しようとすることで、私たちは無意識のうちに、本当に有害な生物が独り勝ちする環境を作り出してしまっているのです。さらに言えば、人間はあまりにもクリーンな環境にいると、免疫系が正常に機能しなくなり、アレルギーや慢性炎症性疾患にかかりやすくなることも分かっています。
攻撃を加えれば加えるほど、相手は進化のスピードを上げて抵抗性を身につけ、やがて人間の手に負えなくなります。抗生物質が効かない薬剤耐性菌や、あらゆる殺虫剤を克服した「ドイツゴキブリ」との戦いは、そのことを雄弁に物語っています。私たちの家は、今や地球上で最も進化のスピードが速い場所の一つになっているのです。
これは、まさにナチスがユデア人を排除しようとすればするほど、より広範な「敵」を作り出さなければならなくなった構図と重なります。「人間中心主義」というもう一つの純粋主義が、私たちの健康や生活環境を、かえって脆弱で不健康なものにしているのです。
「アメリカ・ファースト」と「日本ファースト」という名の純粋主義
この「純粋主義」という名の病は、現代の政治にも色濃く影を落としています。「アメリカ・ファースト」を掲げたドナルド・トランプ氏の登場や、日本における「日本ファースト」を標榜する参政党のような勢力の台頭は、その象徴的な現れと言えるでしょう。
彼らの主張は、驚くほど単純な構造を持っています。それは、「我々の国が本来の偉大さを失っているのは、国内にいる、あるいは国外から流入してくる『不純物』のせいだ」という物語です。トランプ氏にとって、その「不純物」はメキシコからの移民であり、中国製品であり、国際協調を重んじるグローバリストでした。あたかも、腕利きのシェフが、自分の料理がまずいのは、厨房に紛れ込んだ外国産のスパイスのせいだとわめき散らすようなものです。複雑な経済問題や社会の構造的矛盾から目をそらし、すべての責任を特定の「不純物」に押し付けることで、彼らは人々に分かりやすいカタルシスを提供します。
日本の参政党が掲げる主張もまた、この純粋主義の系譜に連なります。彼らは、戦後の日本が本来の輝きを失ったのは、グローバル資本や特定の外国勢力、あるいは国内の「反日的な」勢力といった「不純物」に汚染されたからだと説きます。そして、それらの「不純物」を排除し、添加物のないオーガニックな野菜を食べるように、「本来の美しい日本」を取り戻そうと訴えかけます。
しかし、そもそも「本来の美しい日本」とは何なのでしょうか。思想家の内田樹先生は、その著書『日本辺境論』の中で、この種の純粋主義が内包する自己矛盾を喝破しています。彼によれば、そもそも「日本」という共同体(集合)は、その内部に何か固有で純粋な本質があることによって定義されるのではなく、常に「外部」(非ー日本的なるもの)との境界線において、その輪郭をかろうじて形成しているに過ぎない、というのです。つまり、「我々日本人」という意識は、「我々ではない誰か」を外部に設定することによって、事後的に成立する幻想なのです。
この視点に立てば、純粋主義者たちの試みがいかに絶望的であるかが分かります。彼らは、「不純物」を排除して「純粋な日本」を現出させようとしますが、それは自らの輪郭を規定してくれている境界線そのものを消し去る行為に他なりません。外部を消し去れば、内部もまた消滅するのです。それは、自分の影を切り離そうとして、自らの身体を切り刻むような、滑稽で悲惨な自傷行為です。生きている細胞が、細胞膜を通して外部と物質を交換することによって生命を維持しているように、健全な文化や国家もまた、異質なものとの絶え間ない交流と緊張関係の中にこそ、その活力を保つのです。完全に密閉され、外部との交流を断った「純粋な」細胞が死んだ細胞であるように、「純粋な」国家もまた、死んだ国家なのです。
彼らが夢見る「純粋な日本」とは、歴史のどこにも存在しない、架空のユートピアに過ぎません。それは、家の中から20万種の微生物をすべて追い出して、無菌の理想郷を築こうとする試みと同じくらい、非現実的で、そして危険な発想です。
彼らは、ワクチンや食の安全といった、人々の身近な不安を巧みにすくい上げ、それを「世界を裏で操る不純な勢力」という壮大な陰謀論に結びつけます。これは、戦況が悪化するにつれて、「チャーチルもスターリンもユダヤ人の手先だ」という、より広範な陰謀論に頼らざるを得なくなったナチスの姿と、不気味なほどよく似ています。純粋主義は、自らの正しさを証明するために、常に新たな「不純物」と「敵」を必要とするのです。
汚れた多様性の中にこそ、豊かさは宿る
私たちは、今一度、国際宇宙ステーションの匂いを思い出してみるべきです。純粋さを追い求めた果てに待っているのは、無菌の楽園ではなく、偏った微生物が発する不快な匂いが充満する、息苦しい閉鎖空間でした。
純粋主義は、心地よい響きを持つイデオロギーです。複雑で、面倒で、しばしば矛盾に満ちたこの世界を、「善と悪」「純粋と不純」という単純な二項対立で切り分けてくれるからです。しかし、その単純さこそが、思考停止と不寛容、そして暴力への入り口となります。
私たちの家が、多種多様な微生物との共存によって、かえって健康的で安定した生態系を保っているように、私たちの社会もまた、多様な価値観、文化、出自を持つ人々という「不純物」が混じり合うことによって、その豊かさと強靭さを保っています。
今、私の目の前には、日光(イルグァン)の海が広がっています。窓から吹き込む夏風は、心地よい潮の香りを運んできます。掃除機をかけたばかりの床には、それでも数本の髪の毛が落ちていますし、部屋の隅には埃が溜まっています。この部屋は、ISSと比較すれば、間違いなく「不潔」な場所でしょう。しかし、ここには、私の身体から出る菌の数を圧倒するほどの多様な微生物が存在し、窓の外の虫たちや、玄関に残った砂粒といった、外部世界の「不純物」との連続性があります。その「汚れた」多様性のおかげで、この部屋の空気は、宇宙ステーションよりも遥かに生き生きとして、快適に感じられるのです。
「アメリカ・ファースト」も「日本・ファースト」も、結局のところ、自らを純粋な被害者と位置づけ、世界の複雑さから目を背けるための、甘美な自己憐憫に過ぎません。真の強さとは、自らの内に「不純物」を抱え込み、矛盾や葛藤を引き受けながら、それでもなお他者と共存していく知恵と勇気の中にこそ宿るのではないでしょうか。純粋主義という名の、ブレーキなき暴走機関車に乗り込む前に、私たちは、自らの足元に広がる、豊かで汚れた、生命の多様性に、もう一度目を向けるべきなのです。
(2025-08-21 12:33)