中高生を相手に講演する機会が時々ある。生徒たちの質疑応答は「人生相談」的なものだが、ほとんどは「Aという選択肢とBという選択肢を前にしているのだが、どちらを選べばよいか」という形式を取る。たぶん、相談というのはそういう形式を履むものだと習ってきたのだろう。
私はこんなふうに答える。「そういう形式でものごとを考えることを武道では『後手に回る』と言います。『後手に回る』と必ず敗けます。」
生徒たちは茫然とする。彼らは子どもの頃から「誰かが難問を出す。それに必死になって最適解と思われるもので応じる。採点されて高い点を取るとほめられ、点数が低いと処罰される」という「受験生マインド」を深く内面化しているので、この「受験スキーム」以外でものごとを考えることができなくなっている。気の毒である。
でも、このスキームだと「誰が、いつ、どんな問題を出すのか、どういう基準で採点されるのか」が受験生には開示されていない。そのことが受験生にとってどれほど不利なことかを当の受験生は考えたこともない。
勘違いして欲しくないけれど、武道では「後手に回る」ことを咎めるけれども、それは「先手を取る」ことを推奨してのことではない。だいたい、「先手を取る」という言葉自体が「敵」を想定して、それとの遅速という相対的な競争に囚われていることをはしなくも露呈している。その枠組みでしか考えることができない「囚われ」のことを「後手に回る」というのである。
雨が降るとか風が吹くとかいう気象の変化に対して私たちはつねに「後手に回る」ことを余儀なくされる。でも、それは時に「干天」にとっての「慈雨」になり、帆船にとっての「追い風」になる。私たちは所与の環境を「いいこと」へ瞬時に「書き換える」ことができる。これを「後手に回らない」と言うのである。
でも、こんな説明では中高生にはさすがに難しすぎた。すまない。
(「月刊武道」6月号)
(2025-08-19 17:31)