今、イタリアのホテルでこの原稿を書いている。窓からはラスペツィアの港が見える。ここはイタリア半島を長靴と見立てると靴紐の結び目に当たる海岸の町である。別に観光に来ているわけではない。合気道の師匠である多田宏先生がコロナで中断していたイタリアでの合気道講習会を再開されたので、それに参加するために門人を連れてやってきたのである。
先生は御年95歳。はるか年下の弟子が「膝が痛い」とか言って休むわけにはゆかない。1週間の講習会も明日で終わる。体育館には海からの風が吹くので、日本にいるよりは多少過ごしやすい。
イタリア人はとても親切である。まして同じ武道を修行する道友であるから、遠くから笑顔で手を振ってくれる。以前、神戸の私の道場に遊びに来てイタリア人の合気道家たちとおしゃべりをしていた時に、近代史の話になった。第二次世界大戦が始まった直後、ドイツがフランスを電撃的に攻略した時に、イタリアもフランス領土の一部を占領したことがある。45年の7月には三国同盟を反故にして日本に対して宣戦布告をしている。そのような自国の歴史の「あまり自慢にならない話」をあっさりと話してくれた。少し驚いて、「どうして、自国の歴史の暗部についてそんなに率直に話せるの?」と言ったら、しばらく考えて「昔、一度世界を支配したことがあるからじゃないかな」と答えてくれた。
なるほどと思った。イタリア半島の住人たちはかつて世界を支配していたのである。だから、「余裕」があるのだ。いちいち「イタリアはすごい」と言挙げしなくても、ローマ帝国が世界帝国であったことを否定する人はどこにもいない。
英国でもスペインでも中国でもたぶん事情は似ているのではないかと思う。一度は世界帝国になるだけの力を持っていた国である。その国民であるということの自信が歴史修正主義的なふるまいを自制させるということがあるのではないか。
自国の歴史を虚偽を以て装飾しようとするのは(ドイツ、フランス、日本が適例だが)、そう望んだけれどついに世界帝国になることができなかった国の通弊なのかも知れない。
(AERA7月27日)
(2025-08-05 05:38)