韓国の二つの空白

2025-06-07 samedi

 韓国のハンギョレ新聞に長文の「講演評」が掲載された。書評ではなく講演についての評論が書かれるというのは珍しいことだと思う。朴先生が和訳してくれたものを送ってくれたので、ここに転載する。この記者は私の本をきちんと読んでくれていて、私が韓国人読者に告げたいことを過不足なく伝えてくれていた。

(ここから)
「韓国には二つの空白があるようだ。マルクスの思想と武道の伝統である。私はその二つの世界との橋渡しならできる」

 日本の思想家・哲学者、内田樹(74)神戸女学院大学名誉教授が韓国を訪れた。彼の本「武道的思考(朴東燮 訳・ユユ出版社刊)」と「勇気論(朴東燮訳・RHコリア刊)が同時刊行となることを記念して講演やイベントが続々と行われた。
 内田はリトアニア出身のユダヤ系フランス哲学者エマニュエル・レヴィナス(1906~1995)の弟子として、40年以上フランス文学と思想を研究してきており、50年間、合気道を稽古してきた武道人である。2011年退職して自宅兼道場の「凱風館」という合気道道場を開いているほどだ。学術の言葉を日常の言葉で自由自在に書き表し、日韓両国で大衆に学びの哲学、身体の哲学を広めている彼は、韓国では特に「先生の先生」として名高い。はたらくことから逃避しようとする若者について書いた「下流志向」、「街場の教育論」(朴東燮 訳) 等、教育の市場化を批判した本が人気を得ている。

武道人・読者・記者たちの歓待
 2025年5月28日夕、ソウル江西区LGアートセンターで開かれた「内田樹韓国講演」(UCHIDA TATSURU MOVEMENT)は感覚的でありながらトレンディな歓待の中で行われた。歌手であり「MUSABOOKS(本屋無事)」の店主であるヨジョが司会者として登場。通訳は元朝日新聞記者で先日「至極私的な日本(トゥムセ書房)」という本を出した成川彩と「世界で唯一の内田樹研究者」を自認する朴東燮移動研究所所長がともに務めた。両国の言語をありのまま訳すことより「内田先生を愛する日韓ファンの集まり」で温かい「文化の翻訳」がなさるような不思議な雰囲気が醸し出された。韓日の武道人、読者、記者たちが互いに融合・複合したようなイベントだった。

 内田を招へいしたIVEコーポレーションのソンジュンファン代表は「武道家であり思想家として内田樹から送られたシグナルに応答しながら、韓国のエネルギーと日本の技術が出会い、化学反応が起きれば両国に「MOVEMENT」が起きるはずだと述べた。内田と14年前に出会い、その後もずっとその思想を紹介してきた朴東燮所長は「弟子でありファンとして、一人でもファンを増やしたいと思ってここにきた」と師匠に対する尊敬の念を隠さない。
 朴東燮所長は短い発表で「母港(home port)」のメタファーを使い、内田樹師範との「師弟関係」について熱く語った。母港をもつものは、「いつでも帰れる港がある」と思うことで、航海のパフォーマンスを向上させることができる。だから、結果的に、母港からずっと遠くまで冒険の旅程を延ばすことができる。 そういう意味で、「母港」や「アジール」はすぐれて教育的な機能だということである。だから、彼にとって、内田樹師範「母港的」だということである。
 彼も師の衣鉢を継ぐために「母港」になり、「灯台」になりたいと語った。
 一時間あまりソン代表と朴所長のプレゼンテーションが行われ、ついに内田が観客の期待を真っ向から受け止めた余裕たっぷりのベテラン俳優のように、真っ黒い背景の舞台に登場した。濃いグレーのジャケットの中に真っ白なリネンのシャツを組み合わせ、さりげなくセンスある服装だ。ジーンズにあわせてカジュアルな靴はかかとが擦れていたが、合気道7段には似つかわしくない慎重な足取りが身に着いたかのようだった。がっしりした肩、長い間の稽古で鍛錬された男の武道人のしっかりした指がしなやかながらもしっかりとした動きを見せる。

 内田は自らを「私はマルクシストではなくマルクシアンだ」と述べる。彼の師匠であるレヴィナスは「マルクスの言葉で語る人間」を指して「マルクシスト」と呼び、「マルクスの思想を自分の言葉で語る人間」を「マルクシアン」と呼んで区別した。内田は日本は1870年から150年余りの間続いてきたマルクス研究が蓄積されており、途中苦難の時代もあったが、関連した研究がずっと継続されてきた世界でも稀な国だと言う。特に「持続不可能資本主義(日本語タイトル:人新世の「資本論」)(ダダ書斎2021)を書いた斉藤幸平は韓日両国でよく知られているようにマルクシアンだと言及した。

 マルクシスト(Marxiste)ではなくマルクシアン(Marxien)
「私は16歳の時からマルクスを読んでその思想が血肉化しており日常の言葉でマルクスの思想を語る『マルクシアン』だ。マルクスの思想を知ることなしには、どこの国の歴史も、どんな現代哲学もきちんと理解することはできない。韓国もそのことに対する欲求のために私に声がかかっているのではないかと思う。」

 彼の言葉のように、最近ソウル大学で35年ぶりにマルクス経済学が需要がないからと、講座が廃止になることが論争になったりもした。マルクス講義の復活を願う学生たちの声は多く、市民を対象にしたマルクス経済学講義に1500名を超える希望者が集まり、話題になった。「韓国の若者たちの間には集団の無意識のようにマルクシアンと深いところから触れたいという熱い思いがあると思う」と内田はつづける。

 内田は韓国の読者たちが「武道的なものごと」にも欠落を感じていると分析している。韓国・中国・日本は200年前までは「武道的メンタリティー」をもち、互いに交流してきたが、今やその命脈は途絶えてしまい残念だという。
 内田が言う「武道」とは、漢字で「磨くを意味する「修」」の字を用い、韓国人が「修行」と称する心身の実践を指す。新刊「目標は天下無敵(日本タイトル:武道的思考)」にも内田は「無敵とは敵だというほどのものは存在しない穏やかで広い境地に至ることだ」と書いている。宗教的に言えば「覚醒」「涅槃」「解脱」に近い。ひとことで「道を究める」ことだ。

「宗教的信仰や修行はすべて無限消失点に向かってひたすら歩くことを指す。修行の「修」は師匠の背中を見て淡々と歩き続けることを意味する。生涯、智恵と力を涵養する努力には終わりがない。師匠を通して自身の足りないところに気づくことこそ重要なのである」

 彼は自身の合気道の師匠、多田宏(95)について語る。50年前、師匠からどうして合気道を習いに来たのかと聞かれたとき、若かった内田は「喧嘩に強くなりたくて」と答えた。師匠は愚かな弟子に「そういう理由ではじめてもよい」とにっこり笑いながら答えた。その後、内田は哲学的師匠であるレヴィナスの理論を学びながら、自身の無知がフランス語や哲学の知識の不足というより、人間的な未成熟によるものだと認識するに至った。

「レヴィナスの弟子になった後、私は手元の情報や知識を捨てることからはじめた。レヴィナスを読みながら、私は知らないことが多いけれどもそれがうれしい。学んでいて知らないことに出会うとストレスを受けるのが研究者で、喜びを感じるのが弟子だ。(笑)師匠がいかにすぐれているのかを知り、自分も精進しなければと感じること、それこそが師弟関係だ。」

 彼が合気道の師匠から得た最も大切な教えは、稽古で他人の技を批判してはいけないことだという。20代後半のころは、他人を批判して本人がうまくなることはないということに気づき、内田は「競争から降りた」という。論客として知られてはいるが、実は内田はキツイ言葉で武装して相手の論理を崩すような論争は誰ともしたことがない。「論争に負けると悔しいし、勝てば勝ったでそこに居つくから」である。「韓国人がたゆまず私の著書を読んでくれるのもまた勝利や競争に執着しない生き方に対するあこがれや必要のためではないか」と問い返した。

「私はただほんの少し橋をかけるだけだ。これまでの僕の記憶のアーカイブから反資本主義やコモンを再生し発見する媒介となるだけだ。これが私のシグナルでありMOVEMENTだ」

 内田は「身体の思想家」である。「目標は天下無敵(武道的思考)」でも、武道の本質はひたすら自己刷新することであり、「他人の内部から起こることに対する感覚の触手を広げること」と書いている。家事の能力は他人が送ってくれる救援信号を体で感知する能力と根底では同じであり、惻隠の情とも同一の性格をもつと説明する。他人との共生を重視しないとか、世話をすることに特別な技術は必要ないと考えるとか、限られた資源を互いに奪いあい勝者が独り占めする無限競争ばかり教える教育が世の中を壊していると見る。

「教育の危機が深刻だ。身体感覚を鈍化させるように教えられ、できる子たちは体にたいする好奇心や敬意を忘れてしまう。記録を更新することや勝利を主とするスポーツ、体育を強調する日本の学校教育は誤った身体観を育てる」

韓国と日本、どうつきあっていけばよいか
 内田は帝国主義や植民地戦争被害に対して日本が限りなく責任があると強調し、日本の知識人たちにも大きな影響を及ぼしている。「韓国と中国が日本に粘り強く謝罪を要求することは謝罪をしないからだ」(目標は天下無敵)と繰り返し述べる。極右勢力が蔓延っている日本では勇気のある発言だ。だが、韓国人の相当数が日本人対して身体的に感じる不安がある。感動的に見る日本映画に右翼資本が入っているとか、好きなブランドに右翼イデオロギーが隠れているというニュース等を伝え聞き感じる裏切られた気持ちもそうだ。だとすれば互いに文化をこれほど愛し、 オルタナティブな暮らしやコモンを共有しようとする両国の若者たちはどのようにして互いを近づけていけるだろうか。かれば身体感受性まで支配しようとするイデオロギー的権力作用が問題であると批判している。

「身体的恐怖はイデオロギーに対する恐怖を感じるということだ。修行はきのうの自分を捨てて、連続的な自己刷新を遂げなくてはというが、イデオロギーはそこに執着し居着くことを意味する。私はまた(イデオロギー的暴力と権力から感じる)嫌悪と恐怖がある。その固定観念をどうやって解体していくかが私のテーマでありミッションである」