『情況』に5000字の寄稿を求められた。何を書いてもよいということだったので、思いつくままに書く。どういう読者層なのかわからないが、とりあえず30代くらいの人を想定読者に書くことにする。「若い人たちを想定読者にする」というのは、できるだけ親切に説明するということである。「例のあれが」とか「周知のように」的な内輪のジャルゴンはできるだけ使わないようにする。
『情況』という誌名を最初に教えてくれたのは1971年の冬に駒場(東京大学の教養学部がそこにあった)で新しい運動体を作ろうとしていた時に私が声をかけた級友O君だった。O君は「ブント情況派」という党派の活動家であったので、学内で新しい運動を始めるとしたら「上の許可が要る」という。それで駒場の喫茶店で「情況派の幹部」という人と話をすることになった。私たちが始めようとしている運動について私が説明した。50年以上前のことなので、もう細部は定かではないけれど、「民青一元支配の駒場に新しい潮流を」というような漠然とした構想を話した。話を聴いて、私の構想がブントから見て別に危険なものでもなさそうだという評価を頂いたらしく、O君は「内田と活動してもよい」という許可をもらって、二人きりの政治組織を作ることになった。
O君も私も武闘派ではなくて、言論で政治的状況をどうにかしたいというタイプだった。私は「活動家諸君、内ゲバなんか止めようよ。どの党派も『大学を自由な空間に』という点では一致しているんだから、限定的な政治目標を掲げて、そこでは協力し合おうよ」という微温的な政治的立場だった。もともと気質的に党派的に純化することが嫌いだった。だから、私には民青を含めてほぼ全党派に友人がいて、「どうしてみんな仲良くできないの」というようなことを言っては彼らを困らせていた。
困るのも当然で、71年当時、「革命をめざす全党派がゆるやかに連帯する」というような(空想的かつ反時代的な)ことを言う学生は他にいなかった。ほとんどゼロだった。それでも私は同意してくれる人はきっといると信じて、政治ビラを書いてキャンパスで配布した。でも、何の反応もなかった。結果的に、O君と二人で手作りの政治運動を始めたせいで「お前たちは状況からお呼びじゃないんだよ」という痛苦な事実を現認することになった。
でも、この「無反応」で私はなんとなくすっきりした。なるほど、私は少数派なのだ。ほとんど盟友のいない少数派なんだ。それがわかった。でも、それだからと言ってもうこんな生き方は止めよういうふうには全然思わなかった。それよりは私のような考え方をしてくれる人を一人でも増やすためにこれから「こつこつ」と言論活動をしてゆこうと決意したのである。何年かかってもいい。革命をするなら、多数派を形成しなくてはならない。そのためには純粋な政治思想を求めて分派を繰り返して組織縮減を再生産するよりは対立点はとりあえず『棚に上げて』、みんな仲良く大同団結した方がいい。そんな微温的な政治思想の支持者を増やしていこう。そう思った。
いかなる幼児体験の帰結か知らないが、私は「人には親切に、みんな仲良く」という小学校の壁に貼ってある学級目標のようなことを本気で理想とする人間だったのである。
大学を卒業する頃になると、かつての活動家たちがうち揃って髪を七三にわけて、スーツにネクタイで「就活」を始めた。その光景に私は驚愕した。君たち、ついこの間まで「日帝打倒」とか言ってなかったか。どの党派が最も革命的であるかを競って論争をして、殴り合っていなかったか。いったいあれは何だったのか。「活動家であった以上、就職なんかしないで職業革命家になれ」というような原理主義的なことをもちろん私は言いはしないが、仮にも一度は「革命」という文字列を口にした人間が「日帝企業」や中央省庁にほいほい就職するというのは、「転向」と言うのではないのか。いや「転向」というほどの内的葛藤さえ君たちにはあるようには思えない。
そして気がついた。彼らは高校生の時は受験勉強でスコアを競い、大学に入ったら政治闘争で革命性を競い、大学を出る時は就活でレベルの高いところに入ることを競い・・・つまり、いつも同学齢集団の中での相対的優劣を競って、その競争に勝って「大きな顔をしたい」だけだったのだ。そのことがわかった。
私は就活する気はなかった。気質的にサラリーマンができないことはわかっていた。それに、いかに微温的とはいえ一度は革命をめざす旗幟を立てた以上、吐いた言葉の責任はそれなりに取らなければならない。
とりあえず大学院に行って、「モラトリアム」することにした。O君は秀才だったので、美術史の大学院に無事進学して、研究者への道を歩み始めた。私は駒場の3年間ほとんど勉強していなかったので、深い考えもなく仏文に進学したが、同学年の仏文科30余人の中で「最もフランス語ができない学生」だった(これは確言できる)。テクストを音読しろと言われて、つかえつかえ読んでいたら「三人称複数形の語尾のestを発音するような劣等生が仏文に進学するとは...」と教師を青ざめさせたくらいである。だから、モラトリアムすべく受けた院試に受かるはずがない。さいわい「研究生」という制度があって、大学院浪人にも学生証のようなものを発行してくれたので、研究生という身分になった。
卒業はしたけれどすることがない。「卒業即プー」である。しばらく翻訳と家庭教師のバイトで食いつないだ。まだ日本経済が好調な時代だったので、(今では信じられないだろうが)半端仕事の収入だけで家賃を払って、三食食べて、ドライブや海水浴やスキーに行って、毎晩近くのスナックで(昭和的だ)近所の悪い子たちと騒ぐだけのお金が稼げた。
しかし、遊び暮らしているうちにさすがにこれではまずいのではないかと思うようになった。きっかけは小津安二郎だった。
正月に部屋でごろごろテレビを観ていたら『お早よう』という映画が始まった。松竹の文芸映画になんかに私は何の関心もなかったが、起き上ってチャンネルを替えるのも面倒なので、そのまま寝転んで観ていた。始まって数分後に「こんな映画は観たことがない」と気づいて、座り直した。画面を凝視し、台詞を一つも聴き逃すまいと耳をそばだて、ときどき笑い転げ、見終わった時には深い感動に包まれていた。その日から東京中の映画館やシネマテークを回って小津作品を観た。そして、ほぼ全作品を見終わった頃、「まじめに生きよう」と思った。
小津の映画に出て来る男たちはだいたい大企業のサラリーマンか医者か大学教授である。その男たちは夜になると銀座のバーや小料理屋に繰り出して一献傾けながら、知り合いの娘の縁談の相談をする。と書くとぜんぜん面白くない映画にしか思えないが、これが信じられないくらいに面白いのである。でも、ここは映画論を書く場所ではないので、詳述はしない。
とにかくこの男たちが実に美味しそうに酒を飲む。仕事を終えた後に(時々は昼飯時から)美味そうにお酒を飲み、どうでもいい話をする。映画を見ているうちに、自分も「昼間は仕事をして、夕方になったら悪友と酌み交わして、どうでもいい話をするような男になりたい」と本気で思った。堅気の仕事をすることのたいせつさと楽しさを私は小津安二郎に教えてもらったのである。小津自身は「堅気のお勤め」ということを一度もしたことがない人なので、これはすべて彼の空想である。でも、空想にも人を導く力はある。
その年の暮れに私は合気道自由が丘道場に入門して、多田宏先生の門人になった。これまでのようなだらけた生き方を止めて、まずは「師に就いて修行する人間」になろうと思ったのである。
入門してすぐに納会があり、多田先生がいらした。先生ににじり寄ってビールを注ぎながら自己紹介をした。多田先生が「内田君はなぜ合気道を始めようと思ったのか」と訊かれたので「はい、喧嘩に強くなろうと思って」と即答した。実際に少し前までキャンパスは出会いがしらにいきなり殴り合い...というワイルドな空間だったから護身の術は必要だったのである。でも、それ以上に私はこの答えに先生がどう反応するのか知りたいと思ってあえて挑発的な答えをしたのである(性格の悪い若者だった)。「ふざけるな馬鹿者!」と叱られるか、あきれて追い払うか、渋い顔で説教を垂れるか...それで師の器を値踏みしようとしたのである。まことに不遜な若者である(バカだから仕方がない)。ところが意外にも先生は笑って「そういう動機で始めてもよい」と答えたのである。私は驚愕した。
多田先生の言葉を無理に言い換えると「どんな動機で始めても、私の門人になった以上は適切な修行の道を歩むことになるから問題はないのである。そもそも初心者が武道修行の目的を問われて『正しい答え』をするということはあり得ない。なぜなら、君はこれから私に就いて、今の君が思量できる限界を超えたこと、君の今の語彙には存在しないことを習得することになるからである」ということになる。武道とはこれほどに宏大で、深遠で、そして風通しのよいものなのか。私はこの一言で眼前の曇りが一気に晴れて、「この先生に一生ついてゆこう」と決意した。
それから半世紀が経つ。先生は御年95歳になられたがまだご壮健で道場に立っておられる。「この先生に一生ついてゆく」という決意はほぼ成就したと言ってよいだろう。
というわけで、私は二十五歳の時に、それまでの「戦う男」(というのは言い過ぎで、「態度の悪い男」「孤立しても気にしない男」くらいが適切だが)の看板を下ろして、「修行する男」というものになった。
そのせいかもしれないが、入門2年目に私は二浪の末に東京都立大学の仏文の大学院に入学を許された。それから「稽古と研究」の二足の草鞋が始まり、そのまま今に至る。途中27歳の時に親友の平川克美君と起業して一時会社経営者というものになり、その時は「三足の草鞋」を履いていたことになるが、その話は始めると長くなるので割愛。
「情況」という文字列を見た時にO君のことを思い出したので、つい長話をしてしまった。長い話に付き合わせて申し訳ない。O君はそのあと無事美術館のキュレイターになり、大学の美術史の先生になった。たまに会っても政治が話題に上ることはほとんどない。
本誌は政治的なイシューを扱う媒体なのに、さっぱり政治の話が出てこないではないかとお怒りの方もおられると思う。でも、そうでもない。私が高校をドロップアウトしたのは受験勉強が涵養する「競争的マインド」が心底嫌いだったからである。大学で走り回っていたのは「みんな仲良くしよう」という微温的な政治思想を伝道しようとしていたからである。合気道家になったのは、我執を去り、相対的な優劣を競わない修行の道を歩もうと思ったからである。割と首尾一貫しているのである。
「武道は相対的優劣を競わない」。そう言うと「意味がわからない」という人が多い。これを説明し始めるとすごく長い話になるので、またの機会(があれば)その時に書く。とりあえず、武道の極意を記した澤庵禅師の『太阿記』は「蓋し兵法者は勝負を争わず、強弱に拘らず」という言葉から始まる。勝負を争うと敗ける。強弱に拘ると弱くなる。そういう「武道の逆説」というものがあるのだ。
とにかくわが74年の人生を振り返ってみると、「優劣を競わない。勝敗を争わない」ということにおいては私は「割と首尾一貫」していたのである。
私は(学術的なものも含めて)論争ということをしたことがない。査定というのはするのもされるのも大嫌いである。それが私の「政治」である。「みんな仲良く助け合って、この世の中を少しでも住みやすいものにしよう」という健気な努力を私は止めたことがない。それだけは誇れる。
大学退職後に私は凱風館という道場兼学塾という教育共同体を立ち上げた。ここを「相互扶助ネットワーク」の拠点とするために建てたのである。私は骨の髄まで「コミューン主義者(communist)」なのである。でも、「コミューン主義とは何か」を語り出すとさらに長い話になるので、今日はここまで。
(『情況』3月31日)
*これが連載の第一回だったのだが、掲載誌の表紙が立花孝志だったので、こんな見識のない媒体にはもう二度と書かないと伝えた。
(2025-06-05 10:30)