親切な家父長制

2025-05-16 vendredi

「親切な家父長制」ということについてこのところ「伝道」をしている。
「家父長制」は今は唾棄すべき「諸悪の根源」として扱われているけれども、家族制度というのは良否善悪の判定に従うものではない。
 エマニュエル・トッドによれば、家族関係が「政治的な関係におけるモデルとして機能し、個人が権威に対してもつ関係を定義している」(『世界の多様性』)。
 世界のあらゆる家族制度は「自由/権威」と「平等/不平等」という二つの二項対立を組み合わせた四つのモデルのどれかに当てはまる。
 日本は直系家族という家族制度であり、これは個人の決断や「政治的に正しいかどうか」では変更することができない。直系家族では、長兄が家督を継ぎ、家にとどまる他の成員については権威者として臨むが、同時に扶養義務を負う。
 日本でも最近まではそうだった。でも、少子化と核家族化で、この家族制度は解体した。にもかかわらず家族制度を「政治的な関係のモデル」とみなす思考習慣だけは存続している。
 だから、家父長制解体を叫んだ人が、自分の属する組織が「トップダウン」であることに何の違和感も覚えないでいるという奇妙なことが起きる。「オレは家父長の指図は受けない。一人で生きる」と言って家族解体を支持した人が「今の政治に必要なのは独裁だ」とうそぶく政治家に喝采を送るというのは論理的にはあり得ないことだが、日本社会ではありふれた光景である。
 日本人には「家父長制的マインド」が骨の髄まで浸み込んでいる。だから、家族以外の組織を作る時にも「家父長的な組織」しか思いつけないし、自分がそうしていることに気がつかない。私はその冷厳な事実を「認めよう」と申し上げているのである。そして、「みんなが楽しく暮らせる親切な家父長制」というものがあり得るかどうか、それを吟味してみてはどうかという提案しているのである。長い話になるので続きは次週。

「家父長が諸悪の根源」という言明に論理的に反対の立場にある。というのは「父」がこの世界のすべてを統制する強大な力を持っているという発想そのものが家父長制の「効果」だからである。 
 自分の現在の状態を家父長による過剰介入によって説明しようと、家父長によるネグレクトによって説明しようと、それで「説明がつく」と思っているということ自体が家父長制的思考なのである。
 家父長制からの思想的離脱は「父が全能である」という前提そのものを廃棄するところからしか始まらない。つまり、「父はさまざまなかたちで子どもに干渉する。父が子どもを深く傷つけることもあるし、それほどでもない場合もある。まれに子どもを幸福にすることもある」という非原理主義的な(ほとんど何も説明していない)言明を受け入れるということである。
 だが、家父長制に原理的に批判する人たちは、どうしてもどこかに「諸悪」が凝集する一点があり、それさえ摘除すれば万事はめでたく収まるという話型に固執する。これはとても危険な考え方だと私は思う。すべての排外主義はこの話型を採るからだ。
 私たちが経験的に知っているのは、どんな集団にも「善い人」と「ろくでもないやつ」がいて、その分布はどこでもあまり変わらないということである。全員が善人である集団も、全員が悪漢である集団も存在しない。どこもぼちぼちである。そして、集団をより「まし」なものにするためには善人の比率を増やし、「ろくでもないやつ」が権力を持つ機会を抑制するという以外に確実な手立てがない。
「家父長制があれば万事解決」ということではもちろんないし、逆に「家父長制を廃絶すれば万事解決」ということでもない。私たちにできるのは「家父長制をよりましなものにする」ことだけである。(続く)

 家父長制は日本のような直系家族制度に固有の型である。私たちが「家族」といういうとき、私たちはそれしか思いつかない。家父長制否定することもできるし、補正することもできる。でも、家父長制とまったく別の家族を想像することは難しい(たぶん、できない)。成員全員が平等で、自由で、仲の良い家族が「ベストだ」と言葉で言うことはできる。でも、そのような家族像について手触りのはっきりしたイメージを持つことのできる人はいない。だって、そのような家族を描いた文学作品も映画も連続テレビドラマも私たちは見たことがないからである。
 でも、例えば韓国映画『国際市場で会いましょう』を見ると、私たちはそれを「わがこと」のように感じてしまう。それは韓国も日本と同じ直系家族制だからである。
 幼くして父から家父長の責任を託された長男が、家族たちを扶養するために自分の人生を犠牲にして、最後に老境に至って、父の写真を見ながら「父さん、オレ疲れたよ」と涙する気分は日本人にはわかる。でも、アメリカ人やフランス人にはたぶんその悲しみが切実には感じられないと思う。「なんで自分の人生を弟妹のために犠牲にするんだ。愚かなことを」とむしろ憤慨するだろう。家族制度が違うというのはそういうことである。
 私たちは既存の家族制度の中に産み落とされる。それを別のものに替えることはできない。でも、改善することはできる。「ろくでもない家父長」がもたらす害悪を抑制し、「善い家父長」のもたらすメリットを最大化する方途を考える方が「家父長制廃絶」のために戦うより話が早いと私は思う。でも、そのためには「世の中には『善い家父長』というものも存在する」ということを呑んでもらわなければならない。家父長制廃絶論者には受け入れ難いだろうが、ここは一つ呑んで頂きたい。そして「親切で、無私で、子どもたちの成熟を支援することを主務とする家父長」を日本のロールモデルとして掲げたいと思うのである。(続く)

「親切な家父長制」の話は今日でおしまい。
 たぶん誤解している方が多いと思うけれど、私の言う「親切な家父長制」はジェンダーとは関係がない。集団を率いるリーダーのことを性別にかかわらず「家父長」と私は呼んでいる。
 私の道場凱風館の次の館長は女性である(いま塾頭を務めている)。合気道の技量も卓越しているけれど、私が彼女を後継指名したのは彼女が「とても親切な人」だからである。
 今の日本社会では、人々は機会さえあれば誰かに屈辱感を与える機会を窺っている。セクハラもパワハラもSNSでの呪いの言葉もそうだ。これを私は「家父長制の劣化」の徴候だと考えている。
 家父長の大切な仕事の一つは「みんなのために瘦せ我慢をする」ということである。でも、家父長制そのものが否定されてしまった。家父長が他のメンバーに対して抑圧的にふるまったり、その自由を制約したりする権利を持つべきでもないということについて私は賛成である。でも、他のメンバーのために犠牲になることが自分の役割だと思う人が集団の維持のためには必要だということについては譲れない。誰かが「痩せ我慢」をしなければならない。
 でも、今の日本ではそんなふうに考える人はきわめて少ない。新自由主義イデオロギーは、メンバー全員は等しく自由であり、等しく自分の権利を要求できる。そして、資源分配をめぐって、メンバーたちは戦い、戦いに勝った者は資源を占有して構わない(負けた人たちに分配する義務などない)と説いた。そのイデオロギーが家父長制の息の根を止めたのである。
 でも、死んだのは家父長の担うべき「集団成員を支える義務」だけだった。「弟妹や子どもたちを支配し、その自由を制限し、屈辱感を与えることのできる権利」についての執着だけは生き残った。そのようにして日本の集団はどこも非効率で息苦しいものになってしまった。
 日本人は家父長制の「暗部」だけを選択的に残して、「家父長は親切で、無私で、集団内弱者を扶養し、その成熟を支援することを主務とする」という思想だけを否定した。私はそう考えている。今の日本の集団的劣化は家父長制を「甘く見た」ことの帰結だと私は思っている。
 勘違いして欲しくないが、私は別に「家父長を復活せよ」というような復古的なことを言っているのではない。そうではなく、日本人は実は一度も家父長制と正面から思想的に向き合ったことがないと言っているのである。思想的に向きあったことのない制度に私たちは必ず足をすくわれることになると言っているのである。
(信濃毎日新聞 5月8日~30日)