「親切な家父長制」ということについてこのところ「伝道」をしている。
「家父長制」は今は唾棄すべき「諸悪の根源」として扱われているけれども、家族制度というのは良否善悪の判定に従うものではない。
エマニュエル・トッドによれば、家族関係が「政治的な関係におけるモデルとして機能し、個人が権威に対してもつ関係を定義している」(『世界の多様性』)。
世界のあらゆる家族制度は「自由/権威」と「平等/不平等」という二つの二項対立を組み合わせた四つのモデルのどれかに当てはまる。
日本は直系家族という家族制度であり、これは個人の決断や「政治的に正しいかどうか」では変更することができない。直系家族では、長兄が家督を継ぎ、家にとどまる他の成員については権威者として臨むが、同時に扶養義務を負う。
日本でも最近まではそうだった。でも、少子化と核家族化で、この家族制度は解体した。にもかかわらず家族制度を「政治的な関係のモデル」とみなす思考習慣だけは存続している。
だから、家父長制解体を叫んだ人が、自分の属する組織が「トップダウン」であることに何の違和感も覚えないでいるという奇妙なことが起きる。「オレは家父長の指図は受けない。一人で生きる」と言って家族解体を支持した人が「今の政治に必要なのは独裁だ」とうそぶく政治家に喝采を送るというのは論理的にはあり得ないことだが、日本社会ではありふれた光景である。
日本人には「家父長制的マインド」が骨の髄まで浸み込んでいる。だから、家族以外の組織を作る時にも「家父長的な組織」しか思いつけないし、自分がそうしていることに気がつかない。私はその冷厳な事実を「認めよう」と申し上げているのである。そして、「みんなが楽しく暮らせる親切な家父長制」というものがあり得るかどうか、それを吟味してみてはどうかという提案しているのである。長い話になるので続きは次週。
(信濃毎日新聞、5月8日)
(2025-05-16 17:05)