私の護憲論

2025-05-16 vendredi

 憲法記念日を少し過ぎたが、私の護憲論を改めて開陳しておきたい。私の護憲論ふつうの護憲論とは少し違う。本国憲法は「空語」だという立場からの護憲論である。
 憲法前文にはこうある。
「日本国民は・・・ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を制定する。」
 だが、憲法発布時点に「日本国民」というものは存在しなかった。公布前日まで存在していたのは「大日本帝国臣民」であり、彼らはもちろん主権者ではないし、憲法を起草する権限もなかった。
 現行憲法の前文の前には「上諭」というものが付いていた。
「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が定まるに至ったことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法代七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる」とある。
 二つの憲法の間の法的連続性を保つためには、天皇から国民への「主権者の移動」が帝国憲法に従って行われたという「お話」が必要だったのである。
 別に私はだから日本国憲法は虚構だと言っているわけではない。憲法学者たちの理解とは少し違うと思うが、私は憲法というのは、あらゆる宣言と同じく「空語」であると思っている。
 共産党宣言も、アメリカ独立宣言も、シュールレアリスム宣言も、ダダ宣言も、未来派宣言も、あらゆる宣言は空語である。
 独立宣言には「すべての人間は創造主によって平等なものとして創造されている」と書かれているが、奴隷制が廃止されたのはその87年後であり、公民権法が制定されたのはその188年後であり、Black Lives Matter の運動が起きたのはその237年後である。今でも米国内には厳然たる人種差別が存在している。では、独立宣言は「空語」であり、無意味なものだったと言えるだろうか。私は違うと思う。この空語は「あるべき国のかたち」を示した生産的な空語であった。強い指南力を持った空語だった。国民が全力をもって達成すべき課題を示した空語だった。この宣言があったおかげで、アメリカは遅い歩みで(時に後退しながらも)「すべての人間が自由である」国をめざしてきた。宣言というのはそういうものだ。
 だから、私は日本国憲法を前文から最後までを「その空隙を満たすべきものとして与えられた空語」だと思っている。
 この世界のどこにその「公正と信義」を信頼することのできる「平和を愛する諸国民」がいるのか。どこに「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている」国際社会が存在するのか。そう冷笑する人たちは「すべての国が自国益を最大化するために喉首を掻き切りあう国際社会」で生き延びるために憲法を書き換えようと主張している。現実に合わせて理想を捨てようと主張している。でも、現実に合わせて憲法を書き換えた後、あなたたちは日本をどのような国にするつもりなのか。いかなる理想も掲げずに現実にひたすら適応し続ける国になるべきだと言うのか。
 武道では、与えられた状況に最適解で応じることを「後手に回る」と言う。後手に回れば必ず敗ける。だから先手を取らなければならない。「先手を取る」というのは、敵より先に攻撃するという意味ではない(愚かな政治家たちはそう解するだろうが)。そうではなくて「世界はいかにあるべきか」について指南力のあるメッセージを発信することである。そのメッセージによって現実を変えることである。
(『週刊金曜日』、5月7日)