2025年度寺子屋ゼミテーマ「カオス化する世界と日本:どこに希望はあるのか?」

2025-03-27 jeudi

 来季のテーマは「カオス化する世界と日本:どこに希望はあるのか?」です。 
 なんだか毎年同じようなテーマでやってますね。
 でも、仕方がありません。世界が平和だったら、もっと穏やかなテーマで、宗教とか文学とか哲学とかを心静かに論じるということだってできるんですけれど、なにしろ世界情勢がこれですからね。明日の世界がどうなるかわからない。日本が戦争の当事国になる可能性さえある状況ですから、せめて「何が起きているのか」について、その文脈と意味だけはおさえておきたいと思います。
 今回は「カオス」という語をタイトルに入れて、発表をお願いします。
 テーマについては以上です。
 
 それから「ゼミ発表とは何か」というもう少し一般的なご注意を申し上げます。
 寺子屋ゼミはあくまで「ゼミ」ですから、発表者に求められるのは「モノグラフ(monograph)」の提示です。
(1) 論点は一つに限定すること。
(2) それについて聴講生たちに十分な情報提供を行うこと
(3) その論点について私見を述べること。
 これまでのゼミ発表を見ていると、「私見を述べる」という点の詰めが甘いように思います。
 「私見」というのは「私が言わないとたぶん誰も言いそうもないこと」です。必死で頭を絞らなくても、これは出てくるはずです。ふだんだってそれと気づかぬうちにやっていることなんですから。自分が選んだテーマについて、あれこれ調べたり、考えたりしているうちに「ふと思った、たぶん自分以外にはあまり思いつかないこと」、それが「私見」です。
 もしかすると、みなさんの中には「客観的な事実の摘示にとどめて、私見を述べないこと」が知的に抑制的なふるまいで、「よいこと」だと勘違いしている人がいるかも知れません。それは違います。「自分以外には誰も言いそうもないこと」だけが学術的な「贈り物」になります。学術というのは集団的な営みだからです。そして、ここからちょっと大変なんですけれど、ある知見が「自分以外には誰も言いそうもないこと」であることを示すためには、「自分以外の方たちが言っている『常識的な知見』とはどういうものであるか」を明らかにする必要があります。
 よろしいですか、ゼミ発表において一番たいせつなのは「ちゃんと説明すること」です。「ちゃんと説明する」というのは「自分でも腑に落ちるように、自分にもわかるように説明すること」です。他人の書いたものを引いてきて、それを切り貼りしただけでは、他の人には「説明」のように見えても、自分に対する「説明」にはなりません。そういうものなんです。「自分にもわかるように説明する」というのは、咀嚼して、嚥下して、消化して、自分の身体に取り込まれたものだけを差し出すということになります。
 自分の言葉でしか「説明」という営みは成立しないんです。そして、その時に初めて学術的なオリジナリティというものが立ち上がる。孔子が『述べて作らず』と言ったのは、そのことです。「私は先賢の言葉を祖述しているだけで、何も新しいものもそこに加算していない」と孔子は言ったわけですけれども、「先賢の言葉を祖述する」というのは、それ自体が創造的な営みなんです。だから、「祖述者」という立ち位置にこそ「非主体的な主体性が存立する」という感動的な「説明」を白川静先生は『論語』について書かれたのでした。ほんとうにそうなんです。「説明」は「創造」であり、「祖述」は「創造」である。ほんとに。
 では、寺子屋ゼミの発表者のみなさん、どうぞがんばってください。