人はなぜ「呪いの言葉」を浴びてまでエゴサーチするのかという話の結び。
それは若い人たちが「客観的で厳密な査定」に身をさらすことを社会的な義務だと感じるように訓育(洗脳)されてきたせいだと私は考えている。
私自身は他人からの評価には興味がない。師と仰ぐ方たちからの評価は気になる。でも、師というのは「励ましの言葉」を送ることはあっても、「肺腑を抉るような評言」は決して口にしないものなのである。師は私の成長を願っているのであって、私が厳密な自己評価を得ることを望んでいるわけではない。もし評価が私の努力するインセンティブを損なうような質のものなら、「内田君はそんなものは知らないでいいよ」と考えているのだと思う(たぶん)。
「査定」の反対概念は何だろうと訊くと、みんな考え込んで返答に窮するけれど、私はそれほど難しい問いだとは思わない。「査定」の反対は「修行」である。先達について道を歩むことである。これほど査定と縁遠い営みはない。
修行においては自分が全行程のどの辺まで来たかを知ろうとする者はいない。自分が踏破した距離やそれに要した時間を他の修行者と比べて「勝った負けた」と騒ぐ者もいない。自分の修行がどれくらいのレベルか100点満点で査定してくれと師に請う者もいない。修行においては誰も相対的な優劣を競わない。修行が進んだ者が初心者より多くの資源分配に与って「いい思い」をするということもない(自ら引き受ける課題の難度が上がるだけである)。
私は25歳の時から武道の修行者として生きて来た。誰とも相対的な優劣を競わず、ただ師の後を歩んできた。その後私は研究者になり、本を書き、門人を育ててきたが、どれも他の人と優劣を競い、競争で勝つことを求めてしたことではない。修行者にはストレスがない。査定に苦しむ若い人たちにそのことだけでも伝えておきたいと思う。
(2025-03-26 16:31)