先月に続いて武道の話をします。ご心配なく。「すごく変な話」なので、「なんだか意味がわからない」という点では読者の方たち全員が同じ条件です。
僕は武道の稽古を始めて50年になります。合気道、居合、剣術、杖術などを稽古してきました。さすがにそれだけ長い間稽古すると、武道的な身体がどういうものか、経験的にわかってきます。その一つが「身体は"ちくわ"みたいなものだ」という体感です。
「ちくわ」ってわかりますよね。口から肛門までが「ちくわの穴」で、身体が「ちくわの身の部分」。「穴」を食べものが通過して、「身」が養分を吸収して、残りものを排泄する。
呼吸もそれに近い体感です。吸気の時は「円筒」を空気が一気に満たし、呼気の時は下からゆっくりと押し出す。
そういう身体感覚のどこが武道的なのか、疑問に思われるでしょうね。でも、身体を円筒形だと考えるといろいろなことが腑に落ちる。まず着付けです。日本の着物は円筒に巻き付けるように着ます。布の繊維の摩擦で着物は止まるので、帯を一本巻けばぴたりとおさまる。洋服は薄い六面体に載せるようにして着ます。スーツはそれで身に添います。でも、「自分の身体は薄い六面体だ」と言いながら着物を着てみてください。衣文がぐずぐずに抜けて、帯がほどけてしまいます。
身体は円筒だと断定しないと絶対にできない身体運用があります。それが「抜刀」です。左腰に差した刀を抜く時、柄を握る右手は「前」に出し、鞘を握る左手は「後ろ」に引きます。茶筒を開けるときの動作を思い出してください。右手は蓋の部分を右に回し、左手は胴の部分を左に回しますね。抜刀はこの運動に近い。ですから、回転した円周分の長さの刀なら抜くことができる。
福澤諭吉の『福翁自伝』に、福澤が友人の家の床の間に飾ってある護身用と称する長刀を見て、「こんな長い刀を君は抜けるのか」と訊く場面があります。抜けないと答えた友人に「抜けもせぬものを飾っておくという馬鹿者があるか」と叱りつけたあと、福澤は庭に降り立って「四尺ばかりもある重い刀」で居合を二三本抜いてみせたそうです。
さらっと書いてありますけれど、四尺というのは約120センチです。僕が居合の稽古に使っている刀は二尺四寸五分(約74センチ)です。これ以上長いものを扱うのはいささか手こずります。福澤は僕よりだいぶ背が低いはずです。その人がいったいどうやって四尺の長刀を抜けたのか。手をいくら伸ばしても抜けません。上半身と下半身が逆回転する「茶筒」の身体運用で円周の長さを稼ぐしかない。
欧米にも東アジアにも「長い刀を抜く」という身体運用はなさそうです。韓流時代劇を観ると、武官たちは長い刀を左手に携行していますが鞘から抜くということはしません。中国時代劇でも青龍刀は肩に担ぎます。ヨーロッパのフェンシングの選手たちも「長い剣を一瞬で抜く」技術には興味がなさそうです。つまり、身体を円筒形だと見なす文化圏以外のところでは「抜刀」技術が発達しなかった...というのが僕の仮説です。
それが受験と何の関係があるのかと訝しく思われた読者もいると思います。すみません、ぜんぜん関係ありません。でも、時々は「変な話」に耳を傾けるのは心身の「リセット」に有効ですよ。とりあえず今日一日だけでも「私の身体は円筒だ」と断定して過ごしてみてください。どんな感じになるかお楽しみに。(『蛍雪時代』3月号 2月27日)
(2025-03-19 12:25)