後手に回るな

2025-03-19 mercredi

 僕は神戸市に凱風館という道場を持っていて、そこで150人ほどの門人に武道を教えています。そのことは前にも書きましたね。
 その武道で一番たいせつなことは「後手に回らない」ということです。抽象的ですけれども、意味は分かると思います。「相手が何かを仕掛けてきたので、それに対して最適な対処をする」というのが「後手に回る」ということです。
 と言うと皆さんはびっくりすると思います。だって、これまでの人生ずっと「課題を与えられて、それに最適解で応じるように努力すると、それを査定されて、点数が高いとほめられ、低いと叱られる」ということをしてきたわけですからね。でも、それはすべて「後手に回る」ことで、武道的に言えば「必ず敗ける」ことを意味します。なんと。
「敗ける」というと、たぶん皆さんは目の前のライバルとの勝ち負けのこと(受験とか)を考えると思いますけれど、「後手に回る」というのは、そういうことではありません。「場を主宰できない」という意味です。
 そんなこと急に言われてもわかりませんよね。だって皆さんは生まれてからずっと「後手に回る」やり方だけを教えられてきたんですから。学校でも部活でもバイトでも、全部そうでしょう。「困難な課題が与えられる」というところからすべてが始まる。そのことを少しも不思議だと思わない。それが現代人のデフォルトです。そして、そのような人間である限り、絶対に場を主宰することはできないのです。
「場を主宰する」というのは相手より先に自分の方から攻撃するとか、問題を出される前に答えを出すとかいう意味ではありませんよ(それ、無理です)。勘違いしないで下さいね。先後や遅速を競うというのは相手との相対的優劣を競うという点ですでに「後手に回っている」んです。
「場を立ち上げる。場を主宰する」というのは相対的な優劣を競うことを止めるということです。「そんなの無理」と皆さんは思うでしょうね。勝敗、強弱、巧拙だけを競わされてきたんですから無理もないです。それしか生き方はないと思わされてきたんですから。でも、違いますよ。この世にはもちろん競争とは違う生き方があります。それは修行です。
 びっくりしないで下さいね。修行と言ってもいきなり剃髪して仏門に入るとか、寿司屋の見習いになるとか、そういうことではありませんよ。「修行」というのは先達の背中を見ながら道を歩むということです。武道家なら目的地は「天下無敵」、禅僧なら「大悟解脱」です。もちろん、誰もそんな目的地には到達できません。これは無限消失点のような目標です。でも、それがなければ修行は成り立たない。この決して到達することのできない目標めざして僕たちは日々修行しています。
 この歩みにおいては「全行程のどこまで来たか」も「誰より遠くまで来たか」も「誰より速いか」も問われません。意味がないから。修行においては、相対的な優劣を誰とも競わない。
こんな説明では、うまく想像がつかないと思います。でも、そういう生き方があるんです。
 僕は25歳から50年間、修行者として師の背中をみつめて歩いてきました。その間に大学院に行ったり、教師になったり、本を書いたり、道場を開いたり、いろいろなことをしましたが、それらを他者との相対的優劣を競うために行ったことは一度もありません。つねに道を歩むために行ってきました。もし比較する相手がいるとしたら、それは「昨日の自分」だけです。昨日よりどれだけ道を進んだか、それだけを問う。そういう生き方があるんです。(『蛍雪時代』2月号 1月27日)