人はなぜ「エゴサーチ」するかという話の続き。
自分がネット上でどのような評価をされているのかを知らずにはいられないという焦燥感は年寄りにはよく分からないという話をしていたところである。
聞いた限りでは、40代以下の人たちはそれが見ず知らずの他人からであっても、自分がどう評価されているかを知らずにはいられないらしい。
厳密な査定をされたいという欲望はおそらく彼らが経て来た学校教育と雇用習慣の産物だろうと思う。「成績査定や勤務考課に応じて社会資源は傾斜配分される。高いスコアの人間は多くを取り、低いスコアの人間への分配は少ない」というルールがある時期から「社会的公正」だと教えられるようになった。
しかし、そんなものは決して「公正」とは言えない。というのは、査定が有効なのは、査定する人間に高い見識と人を見る目が備わっている場合に限られるからである。平たく言えば「賢い人がする査定は適切だが、バカが下す査定は適切でない」ということである。
私はかつて大学で勤務考課システム導入を提案したことがある。でも、制度を導入してすぐにそれが致命的な間違いだったと気づいた。人を評価することは簡単である。誰にでもできる。でも、客観的で公正な評価を下すことはたいへんに難しい。それができるだけの見識の高い人は学内に片手で数えられるほどしかいない。でも、この方たちはすでに研究・教育・学務を中心的に担っている。彼らに「同僚の評価」という不要不急の業務を課して疲弊させても大学に益することは何もない。
評価に基づく資源分配ルールの致命的欠陥は「評価者が適切な評価を下し得るということをどうやって保証するのか」という問いに答えていないことである。ほとんどの場合「評価に基づく資源分配ルールは正しい」と言い立てる人間が評価者になる。そして、見た通りそういう人はあまり賢くないのである。(さらに続く)
(信濃毎日新聞3月12日)
(2025-03-19 10:47)