私と同年齢の老人たちと子どもくらいの年齢の人たちと七人で旅をする機会があった。お茶をしながら、老人の一人が「ネットで誹謗中傷されたくらいで自殺する人がいるが、オレには理解できない。そんなもの読まなければいいのに」と日ごろの疑問を口にした。若者たちはこの爺さんをどう説得したらいいのか分からずに顔を見合わせていたので、私が代わりに説明役を買って出た。
「君は自分が何者であるかについて、確信があるからそんなことを言えるのだ。君は長い時間をかけて家族や友人や仕事仲間の中で創り上げてきた確たる足場がある。だから、自分がどの程度の人間かわかっている。でも、今の若い人の多くはそうではない。『自分がどの程度の人間なのか』について確信が持てないのだ。彼らの世代は、子どもの時から絶えざる評価や査定に制度的にさらされてきた。そして、格付けに基づいて資源が傾斜配分されるということが社会的公正だと教えられて育ってきた。だから、家族や友人からの承認だけでは足りないのだ。身内の好意的な査定よりもむしろ見ず知らずの他人からの肺腑をえぐるような批判の方に客観性があるとつい思ってしまう。『エゴサーチ』を止めることができないのはそのせいなのだ。そのようにして匿名の他者から送られてくる『呪いの言葉』の毒に当たって命を削ってしまうのだよ。」
そう説明しながら、たぶんそうなのだろうと自分でも納得した。
私自身は老人なので、他者からの評価には興味がない。もちろん何人か、私がその見識に敬意を払っている例外的読者はいるけれど、片手で数えられるほどである。だから、見ず知らずの他人が自分をどう査定しているか知るためにキーボードを叩くという行為は私には「異常」に映る。
「エゴサーチ」する人たちはなぜ自分の生命力を致命的に殺ぎかねない「呪いの言葉」にこれほど無防備になれるのか。というところで紙数が尽きた。続きはまた来週。
(信濃毎日新聞3月5日)
(2025-03-19 10:45)