公人と道義性

2025-03-19 mercredi

 兵庫県の県政を正常化するための県民集会に招かれて登壇した。私は兵庫県民になって35年になるけれど、県政に関心を持ったのは今回が初めてである。県政の良否が自分の生活に直接かかわるということが久しくなかった。何年か前に県庁での職員研修会の講師に呼ばれたことがあったが、何を話したのか覚えていない。その程度の付き合いである。
 だが、今回斎藤元彦知事の失職と再選をめぐる混乱の渦中では三人の死者が出ている。にもかかわらず知事はこれについて何ら法律的・道義的な責任を感じないと明言し、公選法や公益通報者保護法の違反についても説明責任を果たしていない。加えて維新の県議が百条委員会の内容を漏洩し、怪文書配布に加担し、知事選での斎藤当選のために暗躍した事案まで明らかになった。
 知事も県議も責任をとってとうに辞任すべき事案である。県民集会は「県政正常化」を掲げていた。県政を「良くする」のではなく「ふつうにする」ことが求められている。それだけで今どれほど兵庫県政が乱れているのかがわかるはずである。
 私は何よりも公人に道義的であることを求めたい。有能であったり、雄弁であるより先に一般市民以上の倫理性と公平性を自分に課すことのできる人に公人になってもらいたい。
 公人は公権力をふるい、公共財の使途を決める仕事である。だから、公正無私であることが最優先する。自分自身や自分の「部族」の利益を優先するような人間は、どれほど有能であっても、大衆的人気があっても公人の座にあるべきではない。営利事業をスタートアップして、そこで好きにすればいい。
「邦に道なき時に富みかつ貴きは恥である」と孔子は教えている。今の日本は「邦に道なき」時代のうちにある。そんな今の日本で「富みかつ貴き」人たちは、いくばくかの疚しさと後ろめたさを感じるべきではないのか。同意してくれる人は少ないが、私はそう思っている。
(信濃毎日新聞2月28日)