みなさん、最後までお読みくださって、ありがとうございました。
いかがでしたでしょうか。最初から最後まで、ほぼ全編が「知性の働き」についてのQ&Aでした。
本書の中でも繰り返しているように、僕は知性の働きというのは集団的なものだと考えています。共有財産のようなものです。一人一人が自分で掘り出し、切り出してきた素材を一か所に集めて、「知の共有地」を作る。
知性というのはもともと競争や査定になじまないものだと思います。他人と「どちらがより知性的であるか」について相対的な優劣を競うということには何の意味もないと僕は思います。知性はその機能の良否を他人の競うものじゃなくて、みんなで持ち寄って、みんなで使うものです。
僕がそんなふうに考えるようになった一番大きな原因は11歳の時に、小学校で平川克美君と友だちになったことだと思います。僕たちはとても仲が良かったので、だんだん相手の言っていることと自分の言っていることの区別がつかなくなりました。子どもの時にはよくありますよね。友だちを殴っておいて「ぶたれた」と泣き出すとか、友だちが転ぶと、自分で膝をかかえて「痛いよ」と泣き出すとか。精神分析では「転嫁現象」と呼ぶらしいですが、自他の境界線があいまいになってしまう。
ふつうそんな現象は子ども時代で終わってしまうんですけれども、僕たちの場合は、それが成長した後も続いたのです。その結果、僕が読んでない本でも平川君が読んでいたら「まあ、読んだようなものだ」と思うようになり、僕が観てない映画でも平川君が観ていたら「まあ、観たようなものだ」と思うようになった。音楽でも、政治活動でも、ビジネスでも、どれもそんな感じになって、お互いの持っている経験や知識が「共有財」になって、勝手に使ってよいと思うようになった。
ある時僕がホーススタッターの『アメリカの反知性主義』を平川君に薦めて、「これ、面白いよ、読んでご覧」と言ったら、平川君に「それ、オレがこの前内田に『読め』って言った本だよ」と言われました。
そういうことが多々あるわけです。「どっちが先に知ったか」とか「どっちがたくさん知っているか」ということを僕たちは気にしないんです。そういう友だちと60年以上仲良くしてきた結果、「知は共有財」というルールが血肉化してしまった。そういうことだと思います。
とは言っても、すべての人に向かって、「そうしましょう」と言ってもなかなか納得してもらえないだろうとは思います。誰もがそんな都合のよい友だちに出会えるわけじゃないですからね。
でも、知的な営みというのは本質的には「競争」ではなく、「協働」なのだということは、やはり申し上げたいと思います。そういう考え方をした方が人生楽しいですし、知的生産性は高いんですから。
21世紀に入って日本が知的生産において著しく劣化した最大の理由は、みんなが「自分はどれくらいものを知っているか」「自分はどれくらい賢いか」を誇示し、他人をおしのけて権力や財貨の「割り前」に与ろうと競争しているからです。そんなこと、すればするほど集団的な知性は衰えてゆく。どうしてそれに気がつかないんでしょう。
自分がどれくらいものを知っているかとか、自分がどれくらい賢いかなんて、どうだっていいじゃないですか。自分の所有する知的な財があったら、それは共有地に供託して、みんなに使ってもらう。自分もみんなが供託してくれたものを使わせてもらう。それが知的に豊かな社会だと僕は思います。
同意してくれる人はまだまだ少数ですけれども、これからも僕はそう訴え続けるつもりです。みなさんもそういうふうに考えて下さるとうれしいです。
2025年1月
内田樹
(2025-01-20 11:17)