『知性について(仮題)』まえがき

2025-01-20 lundi

 みなさん、こんにちは。内田樹です。
 本書はかなり変わった成り立ちの本です。何年も前から僕は韓国に講演旅行に行くようになりました。もう10年以上になると思います。最初のうちは僕の教育論の韓国語訳を読んだ教育関係者の集まりに招かれていましたが、訳書が増えるにつれて、講演依頼のトピックも多様化してきました。
 そして、数年前にソウルのYuYu出版社という小さな出版社の編集者が韓国滞在中に僕に会いに来て、「韓国語版オリジナルの本を出したい」という提案を告げてきました。そう言われても、韓国の読者がどんな関心を持って僕の本を読んでくださっているのか、僕はよくわかりません。ですから、「書き下ろしは無理です」と申し上げました。それでもずいぶん粘られましたので、「じゃあ、みなさんから質問をうかがって、それに僕が回答をするという、Q&A形式の本にしませんか」と逆提案しました。そういう形式なら、韓国の読者がいったい僕からどんな情報や知見を引き出したいのか、僕に何を求めているのかがわかりますから。
 そうやってメールでのやりとりが始まりました。最初の方の質問はYuYu出版社の編集者の方たちからのものです。途中からは、僕の著作のほとんどを翻訳してくれて、僕の韓国講演旅行のときの通訳である朴東燮先生が質問係りになりました。
 一年くらいやりとりがあり、2024年に韓国語版が出版されました。タイトルは『無知の楽しさ』というものでした。どうして、そんなタイトルを付けたのか、僕にはよくわかりませんでした(そんなことについては別に書いてないんですけどね)。でも、先方がそうしたいというのなら、仕方がありません。
 ところが意外なことに、この本が僕の本としては例外的に韓国ではよく売れました。ちなみに僕の韓国語訳はこれが51冊目だそうです。点数だけは出ているのですが、どれもそれほど売れません。でも、2024年に出た『図書館には人がいないほうがいい』と『無知の楽しみ』の二冊は(どちらも韓国語版がオリジナル)よく売れたそうです。これまで僕の本を手に取ったことのない新しい読者を獲得したと朴先生がうれしそうに知らせてくれました。
 その本の日本語版を出したいというオファーがあったときに、大丈夫かなとちょっと心配に思いました。というのは、想定読者が韓国の読者だったからです。日本人なら当然知っているはずだけれども、韓国の人は知らないかも知れないことっていろいろありますよね。それについては、日本人読者には不要な「説明」をいろいろしなければならない。そういう説明は果たして日本人読者にとって「リーダブル」であり得るだろうか、考え込んでしまったのです。でも、改めて読み返してみたら、そういう説明って必ずしも「不要」ではないということがわかりました。
 本書の中で「ローカルな限界から出られない書物」についての言及があります。それは「文化的バックグラウンドを異にする読者たちに対して説明することをしない書物」のことです。同じ母語話者で、かつ特定の趣味や政治性を共有する読者にだけ通じればいいという態度で書かれたものは、どれほど豊かな情報や深い知見を含んでいても、「ローカルな限界」がある。その限界を超えて海外に読者を獲得することはできない。
 僕はできることなら、海外の、母語を異にする人たちにも自分の書いたものを読んで欲しいと思って本を書いています。その態度は30代で学術論文を発表するようになってずっとから変わりません。僕はフランス文学・哲学が専門でしたから、論文を書く時は「これをフランス語に訳した場合に、フランス人読者に意味がわかるかどうか」という問いがつねに念頭にありました。そういう「縛り」はフランス語に訳す必要がないものについても、ずっと感じていました。今でもそれは変わりません。だから、僕の本を例えば英語やフランス語に訳すということがあったら(今のところ一度もオファーが来たことがありませんが)、その作業はずいぶん楽なものだと思います。
 とにかく、この本の想定読者は韓国の方たちなので、トピックによっては、かなり長い説明が必要になりました。そして、その時に、母語を異にする読者にでもわかるように「説明する」という作業がとても楽しいということに気づいたのでした。そう言えば、僕は根っから「説明好き」の人間なのでした。
『寝ながら学べる構造主義』というのは僕のデビュー作ですけれども、これは全編フランス現代思想の「説明」でした。学校教育とは何かを論じた『先生はえらい』も、マルクス主義とは何かをかみ砕いて論じた『若者よ、マルクスを読もう』も中高生向けでした。
 こういう作業が僕は大好きだったのでした。それは、前提となる知識を共有しない読者に、ややこしい事象について説明するためには、ものごとを「根源的に」とらえる必要があるからです。
 昔読んだ伊丹十三のエッセイに「野球のルールをまったく知らない人に、野球の面白さを伝える」という企画を持ち込んできた編集者の話があります。「『ピッチャーとキャッチャーは味方同士です』というところから始めるんです」という編集者のアイディアは伊丹さんにはとても面白く思えたそうです。残念ながら、このエッセイは書かれませんでしたが、もし書かれていたら、とても根源的な「野球論」になったと思います。
 それと同じように、母語的な共通基盤がない話題について韓国の読者に「説明」することは、もしかするととても「根源的な話」になるかも知れない。
 実際に書き出してみたら、たしかにそうなりました。
「日本人が読者に想定されていない本」を書いたのは僕にとっては初めてのことです。同じように、韓国の方たちから僕に向けられた質問も、その多くが日本のメディアからはかつて一度も向けられたことのないものでした。結果的に、本書は「これまで一度も書かれたことのない本」になりました。

 最後になりましたが、韓国語版の出版にご尽力くださったYuYu出版社のみなさんと、朴東燮先生に感謝申し上げます。日本語版の出版を進めてくださった古谷俊勝さんにもお礼申し上げます。みなさん、いつもありがとうございます。

2015年1月
内田樹