非人情だけど親切な人

2024-11-11 lundi

 抱樸の「きぼうのまち」プロジェクトのためのクラウドファンディングがもうすぐ終わる。目標額の40%を超えたけれど、まだ足りない。応援のメッセージを頼まれたので、書いた。 


 困っている人を助けることができる人って、どういうタイプなんだろう。
 もちろん、「情に篤い人」だ。「優しい人」、「共感力の高い人」、「想像力の豊かな人」。たぶんそういうふうに指折り数えることができると思う。
 でも、僕はこのどれにも当てはまらない。
 薄情で、気配りがなく、共感力に乏しくて、想像力が欠如している。いや、別に謙遜しているわけじゃなくて、ほんとうにそうなのだ。面と向かって言われるし。
 でも、僕はいろいろな支援活動に積極的にコミットしている。そもそも私財を投じて、道場と学塾を建てて、地域社会の拠点にしようとしてきた人間なんだから、うっかりして僕のことを「社会活動家」だと思っている人だっているかも知れない。
 でも、もう一度言うけど、僕は「情に篤い人」じゃない。
 僕には人の心の中がよくわからない。
 でも、「心の中」はわからないけれど、「お腹が空いた」とか「寒い」とか「痛い」とかいうことはわかる。これはリアルに、切実にわかる。それはすごくつらいだろうなと思う。それについては何とかしてあげたいと思う。
 僕の哲学上の師匠はエマニュエル・レヴィナスという人なのだけれど、レヴィナス先生は、人間がなすべきことは「飢えた人に食事を与え、渇いた人に水を与え、宿のない人に一夜の宿を与え、裸の人に服を着せること」に尽くされると書いている。「それ以上のことはしなくてよろしい」とまでは書いていないけれども、身の上話を聴くとか、トラウマ的体験を癒してあげるとか、世界に数理的秩序をもたらすとかいうことはレヴィナス先生にとっては緊急性がないらしい。
 僕はレヴィナス先生の本に30代のはじめくらいに出会ったのだけれども、読んでとても救われた気がした。過剰に共感と同質性を求める日本社会で、いつもいつも「ウチダ、俺の気持ちをわかってくれよ」と襟首をつかまれて涙目で懇願されていることにほとほとうんざりしていたからだ。
 それからあと僕は「非人情だけれど親切な人」でいいと思ってきた。もちろん「人情に篤くてかつ親切な人」であるほうがずっといいのだけれど、あまり贅沢も言ってられない。
「きぼうのまち」プロジェクトに奥田さんから誘われたときに、とてもうれしかった。奥田さんは人間を見る目があるから、僕を一目見て、「この人、共感性ぜんぜんないな」とわかったはずである。でも、「ま、ええわ」と思った。奥田さんは徹底的にプラグマティックな人だから、この人が参加することで何人が飢えから救われ、何人が一夜の宿を得られるなら問題ない、と。
 僕は他人から善意を期待されると苦しい(手持ちがないから)。でも、「いい人」にならなくても、「いい人」でなくても、奥田さんの仕事を手伝うことはできる。
 奥田さんが日本の支援事業にもたらした最大の功績は「いい人であることは支援のための条件じゃない」という知見を教えたことだと僕は思う。