内田樹選集

2024-11-08 vendredi

 今日はこれから病院ですい臓がんの切除手術の日程打ち合わせである。手術が無事に終わったとしても、もう74歳であるから、相当にダメージは残るだろう。もうぼちぼち「店じまい」の頃合いである。
 何度もそう言って「隠居する隠居する」と宣言してきたが、思い通りにならない。むしろ70歳を過ぎてから仕事が増えてしまった。理由はいろいろある。一番大きいのは「もう後がない」ので、言いたい放題言うようになったせいであろうと思う。いまさら無理して「賢そうなこと」を言って、世間の評価を何ポイントか上げても仕方がない。できることなら「ウチダ以外誰も言いそうもない変痴奇論」を語って、世間のみなさまに「なるほど、そんな変な考え方もあるのか」と思っていただく方が、何ごとかを言う甲斐がある。
 でも、もうさすがに身体がついてゆかないので、店じまいの準備を始めることにした。
 もうこのあと長いものを書くことはないと思うので、手始めとしてこの段階で「内田樹選集」を選定することにした。ラインナップを寝ながら考えた。出版社がばらばらだから、実際に「選集」が編まれることはないだろうが、本人がどの本に愛着があったのかは知っておいてもらっておきたい。切りがいいので、全10編。

1『ためらいの倫理学』
2『寝ながら学べる構造主義』
3『私家版・ユダヤ文化論』
4『レヴィナスと愛の現象学』
5『先生はえらい』
6『日本辺境論』
7『武道的思考』
8『死と身体』
9『街場の文体論』
10『日本型コミューン主義の擁護と顕彰-権藤成卿の人と思想』
番外 『アルベール・カミュ 反抗の哲学』

『日本型コミューン主義の擁護と顕彰』はいまゲラを見ているところで、早ければ年明けには出版されると思う。19歳の時からの宿題だった日本の極右思想と向き合うこと(平たく言えば、「どうして私は日本の極右思想に惹かれるのか?」という問いに向き合うこと)はこの権藤成卿論で一応果たせたと思う。
『カミュ論』は4年前から「波」に隔月連載しながらのんびり書いている。『反抗的人間』の読解をするつもりで書き出したのだけれど、まだたどりつかない。あと一年くらい書けば終わると思う。学術的なモノグラフを書くのはたぶんこれが最後になる。
 リストを見ると一番感じるのは「編集者に恵まれた」ということである。どなたも「他の編集者だったら思いつかない企画」を思いついてきてくれた。私が自分には「いろいろ書きたいことがあるらしい」と気づいたのは、編集者たちの懇請のおかげである。その意味では、ここに挙げた書物はどれも編集者たちとの「合作」である。これだけ好きに書かせてくれたことについてすべての編集者のみなさんに改めて感謝を申し上げたい。
 こうやって「(まだ書いてないものも含めての)選集リスト」を作ると、なんだか気分が落ち着いてきた。でも、あと20年後、30年後にもリーダビリティを保持できるようなものがこの10冊のうちいくつあるだろうか。
『ためらいの倫理学』は2001年の刊行だけれど、まだ角川文庫から出ている。1990年代の時事的トピックと思想を扱った本が23年間生き延びた。ということは、「そこで論じられている対象が何であるかを知らない読者も、論そのものを享受することはできる」ということだと思う。
 今『カミュ論』で書いているのは1952年のサルトル=カミュ論争の話である。72年前の論争の緊急性(フランスがスターリン主義国家になるかも知れないという懸念)はもう存在しない。でも、この論争の深層には、「道義性とは何か」についての本質的な主題が伏流しており、それは時代を超えて語り継ぐ価値がある。
 権藤成卿は若い人は名前も知らないだろう。「昭和維新」という政治=思想運動の中核にいた二人の思想家のうちの一人である(もう一人は北一輝)。私は北一輝という人には魅力を感じない(ものすごく頭がいい人であることはわかるが)。でも、権藤成卿には心惹かれる。この人が望見した「君民共治」の「社稷」という政治的理想郷になら「私も暮らせる」と思うからである。
 若い人が知らない時代の知らない出来事について語り継いでおくというのも、老書生のたいせつな仕事である。
 もし、カミュ論を書き終えたあとにまだ仕事をする時間が残されていたら、その時は成島柳北について書いてみたい。柳北は幕末の儒者で、明治はじめのジャーナリストで、『柳橋新誌』の作者である。私は柳北を「日本的成熟の理想」と思っている。「柳北」という文字列を見ると「ちょっとどきどきする」というような反応をするのは私たちの世代がもう最後だろうから、私たちの世代の誰かが書かなければいけないような気がする。
 いい具合に「仕事の終わり」が見えてきて、安心した。悔いなくずいぶん働いたし、まだちょっとだけ自分のための仕事が残っているのもありがたい。