韓国の読者のみなさん、こんにちは。内田樹です。
『勇気論』を手に取ってくださって、ありがとうございます。
どんな本だかタイトルだけでは見当がつかないと思いますので、とりあえずこの「まえがき」だけ最後までお読みください。
これは僕のごく個人的な意見なのですが、中国と韓国と日本は「東アジア文化圏」というふうに大きな文化圏に含まれるのではないかと思います。21世紀に入って、それぞれの国のかたちも表情もすっかり変わってしまいましたが、それでもこの三国は深いところでは「同じ根」で繋がっている気がします。
それはこう言ってよければ儒教的な考え方です。
こんなことを書くと、たぶん韓国の若い人は「そんな古いもの、もう韓国社会には影もかたちもありませんよ」と苦笑いするかも知れません。それを言ったら日本でも、中国でも、若い人たちの(若くない人たちも)反応は同じでしょう。儒教的なんて・・・そんなもの、今の社会にはかけらもありませんよ。みんなとりあえず自己利益の最大化を最優先して生きている。競争相手を蹴落として、勝った者がすべて取り、敗けた者は野垂れ死にしても自己責任。そういうワイルドルでクールな時代なんですよ。「儒教的なもの」なんて、どこにもありゃしません、と口の端を歪めて言うような気がします。
「だいたい、あなたの言う『儒教的なもの』って何ですか?」と訊いてくるかも知れません。
『勇気論』はそれについて書いた本です。
というのは嘘で、書き始める時はそんな気は全然なかったんです。編集者から「勇気」についての質問の手紙が来て、それに答えを書いているうちに、積み重なって、本が一冊できてしまった・・・そういう無計画な作りです。でも、本を読み返してみたら、この本のメッセージの一つは(全部じゃないですよ、もちろん)「儒教的なものの考え方は、現代においても若い人たちが生きる上で強い指南力がある」ということであることがわかりました。
自分で本を一冊書いておいてから、後になってなるほど自分はそういう本を書いたのか、と気がついた。そういうことってあるんです。
この本の中味は、一言で言うと、「東アジア的な成熟とは何か?」という問いをめぐる考察です。
すみません。「儒教的なもの」についての話が済まないうちに、「東アジア的成熟」に話が移ってしまって。でも、ご心配なく、この二つは「同じこと」なんです。「儒教的なもの」をすごく具体的、限定的に表現すると「東アジア的成熟」ということになる。僕はそう考えています。
「東アジア的」と地理的に限定しているということは、その対立概念がどこかにあるということです。僕はとりあえず「東アジア的」を「欧米的」を対置しています。つまり、東アジアでは人が「成熟する、大人になる」というときに(漠然としてではあれ)、ある理想のかたちがあり、欧米にも固有の「成熟する、大人になる」イメージがある。そして、その二つはずいぶん違うものである。というのが僕の仮説です。
東アジアの人たちは東アジア的に大人になり、欧米の人は欧米的に大人になる。
社会集団ごとに「あるべき大人の像」がずれているというのは、べつに特に珍しい話ではありません。民族学者に訊いたら、「当たり前じゃないか」と言われるでしょう。それぞれの集団は固有の「大人像」を持っており、それはどれが正しく、どれが上等だということはなく、どれも等しく一個の民族誌的偏見に過ぎないんだよ、と。
そうだと思います。それについては僕も異論はありません。
でも、僕は一人の東アジア人として、「東アジア的成熟」にとても心惹かれるのです。
逆に言うと、「欧米的な成熟」にはあまり興味が持てないのです。
欧米社会では、「あの人は大人だ」という言葉がある種の重みを持って語られるということがないような気がします(映画やドラマを観ている限りはそうです)。「あの人は力がある」とか「あの人は仕事ができる」とか「あの人は頭が切れる」というような評価は繰り返し言及されますけれど、「あの人は大人だ」という評語はまず口にされることがない。「あの人は大人だから、あの人の言葉に耳を傾け、あの人の指示に従おう...」という物語の展開になることがほとんどない。そんな気がします(統計的根拠はありませんけど)。
話が変りますけれど、この間アメリカ大統領選がありましたね。ドナルド・トランプが地滑り的勝利で47代大統領に選ばれました。トランプは選挙戦の間は、非常にシンプルで、攻撃的な主張を繰り返し、その使用語彙も多くは「小学校6年生程度」とメディアに揶揄されていました。でも、側近のインタビューを読むと、トランプはふだんは物静かで、「他人の話によく耳を傾ける」タイプの人なのだそうです。確かにそうでなければ、十年以上にわたって巨大な「政治的チーム」を率い続けることなんかできるはずがないですよね。その記事を読んで僕はつい「ふ~ん、トランプって、けっこう大人なんだな」という感想を洩らしてしまいました。僕はそう言う「人間の複雑さ」をつい高く評価してしまうんです。相互に矛盾するような多面性を備えた人間をつい好ましく思ってしまう。
でも、トランプに投票したアメリカの有権者たちは別に「複雑な人物」だから投票したわけじゃないと思います。「わかりやすいことを言う人」だから投票した。
この辺りに東アジアと欧米の「人を見る目」の差があるんじゃないかという気がします。
話を戻しますね。欧米は人間の成熟において「アイデンティティーの発見」ということを重く見ます。
「ほんとうの自分」「ありのままの自分」「素の自分」というものが人格の核心にある。でも、いろいろな外的条件が、「ほんとうの自分」に出会うこと、「ほんとうの自分」を発現することを妨害している。「いろいろな外的条件」というのは、例えば「お金がない」とか「差別される集団に属している」とか「『ほんとうの自分とは違う人』に誤認されている」とか、そういうことです。
そういう障害を乗り越えて、「ほんとうの自分」に出会い、それを発現すると、人は爆発的なパフォーマンスを達成することができる。
スーパーヒーローものは全部「そういう話」です。スーパーマンもバットマンもアイアンマンもスパイダーマンも、みんないろいろあった末に「ほんとうの自分」に出会って、ヒーローになる。もちろん、そのあとに「アイデンティティーの揺らぎ」をときどき経験します(そうしないと「続編」が作れませんからね)。でも、必ず最後には「ほんとうの自分」に立ち還って、人々の歓呼の中でエンドマークを迎える。
こういう物語って、いささか徴候的だと思いませんか。
だって、韓国にもそういう話って、あまりないでしょう? いや、僕だって韓流ドラマを全部観ているわけじゃないですから、あるのかも知れませんけれど、でも、「ほんとうの自分に出会う話」は主流ではないと思います。
それは日本でも同じです。日本の場合はマンガが典型的ですけれども、日本発で世界的に人気があるマンガやアニメは、ほぼすべて「主人公が師に就いて修行して、だんだんと成長してゆく話」です。(『鬼滅の刃』も『NARUTO』も『Hunter×Hunter』も・・・)
これらの物語では、主人公は誰も師弟関係を通じて、連続的に自己刷新して、日々別人になってゆきます。これが東アジアに典型的な成熟モデルではないかと僕は思います。
つまり、東アジアでは成熟は「連続的な自己刷新を通じて別人になること」として理解され、欧米では「ほんとうの自分を発見すること」というふうに理解されている。
まったく違う。
繰り返し申し上げますけれど、どちらが良いとか、どちらが正しいという話をしているわけじゃないんです。文化圏ごとに「成熟」について定義の違いがあるという話をしているだけです。
師弟関係を通じて、日々成長を遂げて、連続的に別人になってゆく物語が東アジアでは、人間的成熟の基本プロセスと考えられている。僕が「儒教的なもの」と呼んだのはこのことです。
そして、韓国社会には今も「儒教的な感受性」は生きているのではないかと僕は思います。表面には出てこないけれど、生き延びているるのではないかと僕は思います。というのは、僕の本がずいぶん読まれているからです。この本がたしか僕の韓国語訳の51冊目だそうです。
隣国の人の本がよく読まれるというのは二つのことを意味しています。一つは「同じようなことを書く人が国内にはあまりいない」。一つは「そういう本に対する読者の側のニーズがある」です。
もしかすると、これは僕がさまざまな書物を通じて「儒教的なメッセージ」を発信しているのだけれど、「そういうものを書く人」が韓国にはあまりいない。でも、「そういうものを読みたいと思っている人」はかなりの数がいるということではないでしょうか。
冷静に自己評価すると僕は「かなり儒教的な人間」です。武道でも哲学でも、はるか見上げるような偉大な師に就いて数十年にわたって修行を続けてきて、「こういう話」をするような人間になりました。典型的に東アジア的な人間だと言っていいと思います。さすがに僕のような「修行者」は日本社会でも例外的です。
僕は自分のことを「日本文化の少し古い層から生まれてきた人間」だと思っています。「現代日本人」ではないんです。日本の文化的風土のかなり深い地層から這い出してきた「古い日本人」なんです。その「古い日本人」であるところの僕の書くものを読んで「こういう考え方、わかるなあ」と思ってくださる読者が韓国にはいる。そうだとすれば、僕はそういう読者に向かって「もうちょっと深いところを掘り返すと、僕たちを結び付けている『同じ根』がみつかると思うよ」とぜひお伝えしたいと思います。
長くなりましたので、この辺にしておきます。どうぞそういうおつもりで最後まで読んでください。
(2024-11-10 07:12)