『無知の楽しさ』についての質問票

2024-11-04 lundi

韓国の出版社企画で「無知の楽しさ」という本が出た。韓国の編集者や訳者の朴東燮からの質問に私が答えて一冊の本になったのである。それについてのメールでのロングインタビューがあったので収録。

 内田先生、こんにちは
 私は韓国で、作家、そして弁護士として働いているチョン・ウジンと申します。
 このような形で、内田先生とお会いできる機会が得られて、ほんとうに嬉しく思います。
先日韓国で出版された『図書館には人がいないほうがいい』を読み、内田先生のまさに「大ファン」になり、先生のご本を何冊か家に積読していて(もちろん韓国語版ですが)、一冊ずつ読んでおります。
 私はそれらの本の内容からいろいろ影響を受けているのですが、その中でももっとも印象に残っているのは「本というのは、およそ死ぬまでに読み切れなくても買って積んでおくものである」というところでした。そのおかげで最近本の購入量が本当に増えてしましました。(実はすごく増えてしまい、少し減らそうかと考え中です。)
 今回先生がお書きになった『無知の楽しさ』を読んでみると、良い文章とは、読者に影響を与えなくてはならないというところがありましたね。私のようにその文章に確かに影響を受け、行動にまで移す人がいるということをちょっとお伝えしたく思いました。
 今回のインタビューでは、このたび先生が初めて韓国の読者向けに執筆され、出版された「ユユ出版社」の『無知の楽しさ』の出版記念として行われます。ですが、単にこの本を中心にしたインタビューというより、この本で先生が投げかけてくださったことを糸口に、自由に質問をさせていただくほうがいいのではないかと考えております。
 特にこの本で「気になることがあれば、ためらわずに何でも聞いてみたらよいのではないですか」とお書きになっていた文章に背中を押され、「思いつくままに」お伺いするインタビューの時間とさせていただけたらと思います。
では、よろしくお願いいたします。

 まず、このインタビューを読む方たちの中には内田先生についてよく知らない人もいるかと思います。もしそれが私なら「毎日、合気道の道場を開く哲学者」ということばがまず浮かぶだろうと思いますが、先生ご自身から自己紹介していただけないでしょうか。

 はじめまして、内田樹です。インタビュー、どうぞよろしくお願い致します。 
 最初のご質問ですが、いつもインタビューされたときにどう自己紹介したらいいのか困ります。20世紀のフランス哲学・文学の研究者というのが、60歳までの「本業」でした。でも、大学教員を退職した後は、「物書き兼業武道家」と自己紹介するようにしています。本業は「武道家」で道場で弟子たちに武道を教え、余暇にはいろいろなトピックについて思いつくまま書いて原稿料を頂いているという意味です。
「本業」と「余暇」の違いは、「本業」の方は「武道を教わりたいという人」という方が道場まで来てくれて「教えてください」と言ってからしか始まりませんが、「余暇」は私の書いたものを読みたいという人がいてもいなくても書けるということです。頭の中味を出力して、自分が考えていることを知るために書いていますから、媒体からの寄稿依頼があろうとなかろうと書きます。興味があれば、何についても書きますけれど、ふつうの方より詳しい分野もあります。能楽と大学と医療教育とマルクスについては割と詳しいです。でも、もちろんそのどれについても「専門家」ではありません。

今回出版された本のタイトルが『無知の楽しさ』ですね。「無知」というと、一見すると頭を空っぽにしたまま無邪気に遊んでいる子どもたちや、酒に酔った人が思い浮かんだりします。このタイトルで内田先生が韓国の読者に伝えたいことなど簡単に紹介していただけませんか。

 このタイトルは僕が選んだものではありません。もともと韓国の編集者の方が送って来たいろいろな質問に僕がそのつど答えたもので、それをまとめたときにどういう本になるかは事前には予測がつきませんでした。結果的に出来上がった本に『無知の楽しさ』というタイトルをつけた方にはどういう意味を込めたのか、僕も知りたいです。

ー最近韓国ではジムやピラティス、ランニングのような健康のためのいろいろな運動が流行っています。私もあれこれやってみましたが、長く続けるのは簡単ではありませんでした。合気道や武道の意味について語られる先生のご本を読むと、私も武道というものをしてみたくなりました。武道の魅力といいましょうか、 武道のよいところと言いましょうか、読者が武道をしたくなるような、お言葉をいただけたらと思います。

 武道は「修行」です。格闘技でもないし、健康法でも護身術でもありません。
 修行の目的は「天下無敵」です。もちろん、こんな目標に達することのできる人はまずいません。でも、それを目標に掲げないと日々の稽古はできません。
 禅宗の僧侶たちは「大悟解脱」をめざして修行しますけれど、ほとんどの方はその境地に達する前に寿命が尽きます。でも、だからと言って「こんなことなら修行しなきゃよかった」と思って悔いる方はいないはずです。
 修行というのはただ淡々と「道を進む」ことであって、目的地は喩えて言えば「シリウスの高み」のようなものです。決してたどりつけないけれど、そこ以外に目的地はない。
 ですから、武道では他人と相対的な優劣を競いませんし、誰かに査定されるということもありません。比較する相手がいたとしたら、それは「昨日の自分」です。「昨日の自分」とどこがどう変わったか。それをモニターする。微細な変化が何によってもたらされたのか、それは何を意味するのか、どのような展開の前触れなのか・・・それを自分で吟味する。とても心楽しい、わくわくする作業です。その「わくわくする感じ」は合気道を始めて半世紀経っても少しも変わりません。

 内田先生はレヴィナスの「弟子」であることを強調されているように感じました。は私も学部時代に「哲学」を専門にしていたので、レヴィナスについてはちょっとだけ勉強したことがありますが、そのときに自分中心の思考から他者中心の思考に切り替えなくてはいけないというようなことを学んだような気がします。現代の韓国を生きている人たちにとって学ばないといけないレヴィナスの思想とかありましたらご教示いただけないでしょうか。

 レヴィナスの思想は約めて言えば「他人に優しくしましょう」「自分を固定化しないでどんどん別人になる方がいいです」という穏やかな人生訓になると思います(ほんとに)。でも、この教えを「万人に妥当する、人としてのまことの道」であると断言できるようになるために、レヴィナスがどれほど深い哲学的探究を行ってきたのか、その道程を知ると気が遠くなりそうです。僕がレヴィナスを「生涯の師」だと確信したのは、この穏やかな人生訓を哲学的に基礎づけることがどれほど困難な事業か、僕にも何となくわかったからです。

 ここからはもう少し本格的に私が本当にお聞きしたいことを伺おうかと思います。心の奥底から湧き出た質問とでもいいましょうか。
 最近、韓国は世界で最も子どもが生まれない国になってしましました。いわゆる深刻な少子化とともに超高齢化が進んでいるということですね。既に地方では消滅するところが出始め、そのうち韓国という国が消滅するのではないかと心配する声も多くあがっています。日本は韓国よりも先によく似た道を辿っていると思いますが、最近では韓国の合計出生率が日本の半分程度に過ぎず、まさに韓国が世界でこの問題と関連して最も深刻な国になっています。このような現象について、なんかアドバイスをいただけないでしょうか。


 地球の「環境収容能力(Carrying capacity)」 を考えると、80億というのはあきらかに人口過剰です。すでに世界の9人に一人は飢餓状態にいます。もう地球環境は人類のこれ以上の増殖には耐えられない。ですから人口減は合理的な解なんです(19世紀末の世界人口は14億。今の中国は当時の世界人口を統治しているのです)。
 若い人はご存じないと思いますけれど、1970年代まで「人口問題」というのは「人口爆発問題」でした。地球の資源が枯渇して人類が滅亡する危険について多くの学者が警鐘を鳴らしていました。それがころりと反転して、人口が減り過ぎていくつかの国民国家がなくなりそうだという話になったのはごく最近の話なんです。
 災害のスケールとしては人口爆発より人口減少の方が「まだまし」だと僕は思っています。
 ただ、人口減少にも「急激な」と「穏やかな」という程度の差があります。「急激な人口減」は場合によっては破局的な事態をもたらします。「穏やかな人口減」はうまくすると、高度な文明と豊かな資源を少数の人々が享受するという幸福な状態を創り出すことができるかも知れません。
 人口減は止められません。ですから、僕たちに課せられている問いは人口減が「急激なもの」ではなく、「穏やかなもの」にするために政治的に何ができるか、です。
 これは徹底的に政治的な問いですい。経済的な問いではありません。資本主義は仮に人口減局面であっても経済成長を求めます(そういうシステムですから)。
 人口減局面でさらに経済成長するためには、資本主義は、人為的に「人口過密地」と「人口過疎地・無住地」を創り出し、過密地ではこれまで通りの活発な経済活動を営み、過疎地・無住地では「生産性の高い産業」を行うという解を提示してくるはずです。「生産性の高い産業」とは株式会社経営による大規模農業、原発、ソーラーパネル発電、風力発電、産業廃棄物廃棄場...などが考えられます。どれも生態系にシリアスな悪影響を及ぼします。でも、もうその土地には「地域住民」というものが存在しないので、反対運動がありません。その後人間がそこで暮らす可能性がないということになれば、生態系の維持コストを企業も政府も負担はしないでしょう。結果的に国土の大半は以後「居住不能」になります。
 人口減局面で経済成長をめざせば、資本の論理が求めるのは「都市部への人口集中」と「地方の無住地化」です。これは間違いありません。韓国で起きているのはそのような事態です。
 繰り返しますが、これは資本主義経済の要請なんです。「そんなことを続けていたら、いずれ韓国そのものがなくなってしまって、韓国の資本主義も同時に消滅してしまうじゃないか」と驚かれる方もいるか知れませんが、そうなんです。資本主義は生き物ではなくてただのシステムですので「生存戦略」というものはありません。「韓国が滅びたら韓国の資本主義の立場がないじゃないか」と問い詰めても、資本主義には「立場」というものもないのです。ただの構造ですから。
 だから、「市場のニーズ」に丸投げして人口減少問題を放置しておけば、さらに「急激な人口減」が続きます。これを阻止するためには「穏やかな人口減」のためのシナリオを僕たち自身がただちに提示してゆく必要があります。僕たちに代わってこのシナリオを考えてくれるような政治家やビジネスマンや学者はいません。そして、「正解を考えてくれる人」の登場をぼんやり指をくわえて待っているほどの時間の余裕はもうないと思います。自分で考え始めるしかない。僕はそう思います。


 私は『インスタグラムには絶望がない』という本を出したことがあります。
 そのあと「SNS」というカルチャーについて批判的な観点を取り続けています。最近はSNSが行き過ぎた自分を誇示する場となり、人々が互いに比較しあって、相対的剥奪感を煽ったり、理想と現実の隔たりからひどい抑うつ感と無気力を感じたりするなど、さまざまな問題が起きていると思います。
 内田先生は最近の「SNS」というカルチャーについてどう考えていらっしゃるのかお聞かせてください。

 SNSはすべての人が(理屈の上では)全世界に向けて、メッセージを発信できるという点では人類の生み出したすばらしい発明だと思います。それがいくつか有害な結果をもたらすとしたら、それはシステムそのものではなく、その「運用」に問題があるからです。システムを廃絶することはもうできません。それをどう「賢く」用いるか、それに知恵を傾ける方がいい。
 あらゆるテクノロジーはそれがもたらすベネフィットとそれがもたらすリスクを計量して、存否を判断すべきだと僕は考えています。SNSはリスクよりベネフィットの方が多いテクノロジーです。ですから、リスクを軽減する具体的な手立てを考えるのが合理的だと思います。
 SNS以外でも原理的に言えば似たようなことは起きます。僕が中高生だった頃はSF雑誌や音楽雑誌の投稿欄に「行き過ぎた自分を誇示する」子どもたち同士が相対的な知識や審美眼の優劣を競い、心理的な傷を与えたり負ったりするということがありました。メディアも知らない子どもたちの世界の出来事でしたから社会問題にはなりませんでしたけれども、人間は「自分を実物以上に装飾的に誇示できる機会」があればつい利用したくなる、そういう度し難い生き物であるということを僕は中学生の時に学びました。
 今でも僕はSNSのみならず、執筆活動全般を通じて、「自己を過剰に装飾的に誇示する」ということと「よく知らない人と知識やテイストについて相対的優劣を競う」ということはしないようにしています。「どうしてですか?」と訊かれそうですけれど、他人が自分のことをどう思うかには、あまり興味がないのです。若い頃には少しは他人からの評価にも興味があったのですが、武道修行を始めて「他人との相対的な優劣を競う心は修行の妨げになる」ということが身にしみてからは、そういうこともぱたりとなくなりました。


 内田先生の文章を読むと、わたしの心がほんとうに自由になるような感じがします。
 そのおかげで、わたしも何かに縛れない質問とかをすることになりました。
 一方では昨今、時代が行き過ぎた「主観主義」時代だと言われたりもします。
 みんながそれぞれ、自分だけが正しいと思いこみ、「客観的な正しさ」を目指すことやそういったような正しさの基準は消えていっているということでしょう。過去に客観の暴力が問題だったとすれば、今はむしろ行き過ぎた「主観主義」が問題であると言えるかもしれません。
内田先生はこの現象についてどう思われますか。

 ポストモダンという思想潮流がありました。1980年代くらいから欧米ではやり出したものです。「客観的実在などというものは存在しない。すべて主観である」というわりと過激な哲学でした。「自分が見ている世界だけが客観的現実で、私以外のものが見ている世界は幻想だ」という「自己中心主義(égocentrisme)」に対する批判としては、すぐれたものだと思いました。自分が経験していることの客観性について過大な評価を与えないという知的抑制は悪いものではありません。
 それが「私の眼には世界はこう見える。あなたには世界が別のように見える。ではいったい『ほんとうの世界』はどんな感じなんだろう」という対話的な活動のきっかけになるのであれば。
でも、ご存じの通り、そうなりませんでした。
 ポストモダンは「客観的実在などというものは存在しない。誰もが自分が主観的に構築した世界を見ているのだ。だったら、自分にとって一番居心地のよい世界に安住して、そこで満足していて何が悪い」という居直りにまで劣化してしまいました。それが今日「オルタナティブ・ファクツ(alternative facts)」「アイデンティティー・ポリティクス(identity politics)」と呼ばれる思想潮流をかたちづくることになった、というのが僕の理解です。
「オルタナティブ・ファクツ」は「見る人によって世界は別に見えるが、どれも等しく事実である」というある種の知的虚無主義です。「アイデンティティー・ポリティクス」は「ことの理非はさておき。どんな場合でも、自分が帰属するアイデンティティー集団の採用している世界の見え方を採用しろ」というこれも別の種類の知的虚無主義です。
「私だけが客観的現実を見ている。おまえたちが見ているのは幻想だ」というのは「ろくでもない考え方」ですが、「全員が幻想を見ており、それは非客観的である点において等格である」というのも同じく「ろくでもない考え方」です。問題は「どちらのろくでもなさがよりろくでもないか」の程度差をきちんと見きわめることです。人が見ているもののうちには「かなり正確に現実をとらえているもの」と「まったくの妄想」があります。そこには無視しがたい「程度の差」があります。
 ガリレオの時代の「地動説」は今日の科学から見るとかなり不正確な理説ですけれども、同時代の「天動説」に比べると、「仮説がシンプルであり、かつ説明できる現象が圧倒的に多い」ものでした。だとすれば、この場合にはガリレオの「地動説」を以て「暫定的真理」とみなして、これを足場にさらに汎用性の高い学説を探求するというのが知的には生産的な態度です。
 ガリレオの説もキリスト教会の説も、どちらも「絶対的真理」ではないという点では「五十歩百歩」だから、どちらも採用しないということになっていたら、人類の科学の進歩はその時点で終わったいたでしょう。
 絶対的真理にはいきなり手を届かせることは誰にもできません。それよりは「程度の差」をていねいに吟味すること。知性の活動の本質はここにあると思います。

『無知の楽しさ』で特に印象深かったのは「武道的思考」でした。互いに競争と比較ばかりするのは資本主義社会の特性であり、同時に東アジアの集団主義が変質した特性ではないかと思ったりもしています。そうした中で、自己流に生きる人生は「武道的思考」と関連が深いようですね。この「武道的思考」による生き方について簡単に紹介していただくとともに、これにしたがった生き方を現代社会で実現するときに、遭遇する「たいへんさ」を克服する方法も教えていただけるとありがたいです。

 ここまでご質問へのお答えとして書いたことはどれも「武道的思考」に基づくものだと言ってよいと思います。
 目標を「無限消失点」に置くこと、他人との相対的な優劣を競わないこと。
 武道では「相対的優劣を競って勝つこと」を最も嫌います(「敗けること」ではありません)。成功は「成功体験に居着く」というリスクをもたらすからです。成功体験は人をそこに「釘付け」にします。それは成長も変化も止まるということです。
 でも、ひとたび成功した人にとって「成功体験を捨てる」ことはたいへんに困難です。現にそれが富や名声や権力をもたらしている場合には一層困難です。でも、東アジア文化圏ではそれを「捨てろ」と教えています。道義的な理由というよりは、「成功体験に居着くとその後の成長が難しくなる」という実利的な理由によります。
 もちろん、ここでいう「成長」は富や名声や権力の量的増大を意味しません。そういうものが「価値があるように思えなくなる」という本人のものの見方の変化のことです。我執を去るほど生きやすくなる。簡単と言えば簡単な話です。

 私は先生が今回の本でスティーブ・ジョブスに言及されながら、自分の内面に従う「勇気」を強調されている部分が印象的でした。私も私の内面の声を聞き、生きようとする勇気について、よく考えたりします。時には勇気が先走って「蛮勇」になる場合もあると思います。例えば賭博をする勇気は時には自制しなければならないかもしれません。冒険する勇気と、自制しなければならない蛮勇のあいだのバランスが取れる方法があるのでしょうか。

 勇気というのは「少数派であることに耐える」ことのできる心の強さと、自分には「理がある」という叡智的な確信と、二つを必要とします。それをかたちづくり、保持するためには長く集中的な努力が必要だと思います。
 とりわけ「心の強さ」は生得的な条件がかかわってきますから、若い人たちに向かって、誰かれ構わずに「勇気を持って生きろ」と説くことには、僕もいささかの抵抗を感じます。しかたなく、「勇気を持って生きることができる人は勇気を持って生きて欲しい」という同語反復みたいなことを語ることになります。
「冒険する勇気と自制しなければならない蛮勇の違い」はどこにあるかというご質問ですけれど、その程度の差を判定するのが知性の仕事です。自分の判断には「理がある」かどうかを吟味するのは徹底的に叡智的な営みですから。知性が明晰であれば「判断に迷う」ということはありません。

 内田先生の「学びとは別人になること」という言葉がたいへん印象深かったです。最近私は幼い子どもを育てていますが、ことばや歌のようなものを学びながら、毎年、子どもは別の存在になっていくのだと感じたりします。
 一方、大人になってから何かを真摯に学び「別の存在」になるということは、難しいことだと思います。私たちが本当に何かを学び、変化しようとするとき、ある種のコツのようなものがあるのでしょうか。韓国では最近、作家たちの本の内容を写経するのが流行っているのですが、このような行為も役にたつでしょうか 。 

「学び」というのは、別人になることです。それまでの知性的な、あるいは感情的なフレームワークに収まりきらないものを受け容れるということですから、手持ちのフレームワークはたわんだり、ひびが入ったりすることもありますが、ふつうは「かたちを変えて、サイズを大きくする」ということで対処します。
 学ぶというのは「知識や情報の量が増える」ということではなく、それまで使っていた「知識や情報の処理のシステムを変える」ということです。「頭がよくなる」というよりはむしろ「頭が大きくなる」「頭が丈夫になる」という方が実感に近い表現になると思います。
 写経は他人の言語を自分の言語枠組みの中に無理やり押し込むことです。それを受け容れる語彙や観念が手持ちの言語資源のなかになかったら、手作りするしかありません。間違いなく「頭が大きく」なると思います。
 僕はレヴィナスの哲学書を最初に翻訳したときに、そこに何が書いてあるのか、ほとんど理解できませんでした。しかたなくフランス語を日本語に置き換えてゆきました。ほとんど「写経」です。でも、そういう作業を20年くらい続けて、数千頁も訳しているうちに、さすがに「レヴィナス語辞典」のようなものが僕の頭の中にもできます。もともと僕の中に存在しなかった語彙や観念が「辞典」の日本語訳として登録される。それはレヴィナスのフランス語を日本語に置き換えるために僕が手作りしたものです。レヴィナスが蒔いた種子が僕の中で発芽したものです。きっかけは他者から到来したものですけれども、素材を提供したのは僕自身です。「学び」を通じて別人になるというのはそういう経験だと思います。

 最近、韓国はすべての問題や悩みをお金で解決できると言わんばかりに、お金中心社会になってしまったようです。お金が自尊感情を決定づけ、お金で序列を決めて、お金だけで幸福と人生の価値が決まるとみんなが信じている雰囲気が蔓延っています。みんながお金の心配、お金に対する不安、財テクを手放すと、自分だけが「相対的乞食」)になってしまうかもしれないという恐れの中で生きています。
 ですから、仕事、愛、人との関係等、すべてのものが損得勘定になっています。お金というのは生存と直結した問題であるだけに、人間がこのような問題から抜け出すのはたやすいことではないと思います。このような世の中で本当によい人生・生き方とは何なのか、どう生きればよいのかについての内田先生のご意見をうかがいたいと思います。

 お金について一つだけ確かなことは「お金持ち」の定義です。それは「お金のことを考えないで済む人」のことです。
 僕たちはふだん「胃袋」の事を考えません。胃袋が健全に機能して、ぱくぱくご飯を消化しているときには「胃袋はどんな状態であろうか。ちゃんと胃液を分泌しているだろうか」というような懸念は脳裏に浮かびません。
 お金も同じです。朝から晩までお金の心配をしている人が「お金のない人」で、それをしないで済むのが「お金がある人」です。そして、これは所持している金額の多寡とは関係ないんです。
 お金の心配をしないで済む一番簡単な方法は「収入以下の支出で暮らすこと」です。僕は大学を出たあと、長いこと定職に就かずふらふら暮らしていました。翻訳や家庭教師のアルバイトで食いつないでいましたが、お金の心配をしたことがありませんでした。月収が10万円なら、9万円くらいで暮らす。そうすれば1万円貯金もできる。
 その頃「一度生活のレベルを上げると下に落とすことはできない」と公言する人が周りに多くて、彼らはいつもたいへんお金のことで苦しんでいました。「生活のレベルを上げる」と言っても、蕎麦屋に入ったときに「かけそば」を食べていたやつが無理して「天ぷらそば」を食べるような程度のことなんですよ!でも、そこで生じた数百円の出費がたまりたまって夜も寝られないほどの苦しみをもたらす(ことがある)。
 僕は収入の内側で暮らすということをつねに原則にして生きてきましたので、借金というのをしたことがほとんどありません(生涯に3回だけです。もちろんちゃんと返しました)。
 僕は所持金の額でその人の社会的地位が決まるとか、人間としての貴賤が決まるということは生まれてから一度も思ったことがありません。
 それはたぶん子どもの頃に、戦中派の父親から「学歴とか社会的地位とか財産の有無とかいうことは、人間の質と何の関係もない。その人が『哲学を持っているか』どうかだけがたいせつなのだ」と繰り返し教えられたせいもあると思います。
 父は満洲事変の年に満洲に渡り、戦争が終わって一年後に北京から帰国した人です。15年間中国大陸にいて、人間が(植民地を支配している宗主国民であるときや、戦争で市民を虐殺できるだけの実力差があるときや、あるいは敗戦になって逃げ出すときに)どれほど利己的で、無慈悲で、非情な存在たりうるのかを実見してきたのだと思います。その結論が「相手が何国人であれ、ゆるがぬ信念をもっている人、一言を違えない人だけを信じろ」という教えでした。僕はその点では父の教えに生涯忠実だったと言っていいと思います。

 内田先生もご存じでしょうけれども、最近韓国の作家ハン・ガン氏がノーベル文学賞を受賞しました。それで、人々が書店に押しかけて、いきなりハン・ガン氏の本が100万部以上売れるという、歴史的な出来事がおこっています。ちょっと前までは、成人の半分以上が年に1冊も本を読まないという悲嘆にも無関心な雰囲気だったのとはまったく対照的です。
 このような現状、さらに、私たちの時代に本を読むということ、これからの文学と本の運命や意味はどうなるか、等、内田先生のご意見を聞かせてください。

 どんなきっかけからでも本を読むのはいいことです。書物が世界を変えるためには、「大量に頒布されて、大量に読まれて、多くの人が書物ついて語る」ということが必要です。どんなに素晴らしい内容の本でも、限られた読者にしか受け入れらない場合には、それが現実変成力を発揮するまでには、長い時間がかかります(長い時間を経由したけれども、ついに現実を変えるには至らなかった...ということもあります)。
 ですから、書物については「リーダビリティ(readability)」というか「リーダーフレンドりー(reader friendly)」という要素が必要だと僕は思っています。
 どちらも突き詰めると「読みやすさ」という意味ですけれども、別にそれは「簡単に書かれている」という意味ではありません。そうではなくて、この本は「あなた」に向けて書かれているのだと読者をまっすぐにみつめる「まなざし」のことです。自分のためにこの文章は書かれているということは、読者には伝わるんです。本の内容が理解できなくても、本の宛先が自分であることはわかる。「コンテンツ(contents)」と「宛先(address)」は別の次元に属すからです。
 これまでに何度も書いたことですけれど、レヴィナスの 『困難な自由』という本を初めて読んだ時、そこに書かれていることはほとんど理解できませんでしたけれど、僕がこの本の読者に想定されているということはわかりました。「この本の中味が理解できるような読者に自分を育て上げろ」というレヴィナス先生からのメッセージははっきり伝わってきました。どうしてわかったのか。たぶんレヴィナス先生が本の冒頭からいきなり「惜しみなく」先生の哲学的叡智の本質を読者に叩き込んできたからです。武道的な比喩を使えば、入門したその日の最初の稽古で、師匠が「奥義」を教えてくれたようなものです。そんなこと、ふつう行きずりの人にはしません。でも、いきなり「奥義・秘伝」から教え始めたんです。レヴィナス先生は。それはこちらも電撃に打たれた気分になります。誰もがそういう書物に出会えるといいですね。

 私たちが後悔しない人生を生きる方法はあるのでしょうか。 最善を尽くして自分の人生を最高にする方法があるのでしょうか。

 これはいくら何でも抽象的過ぎる質問だと思いますけれど、ほんとうに答えをお知りになりたいのでしょうから、僕の意見を申し上げます。「後悔しない人生」を送るということを事前に計画することはできません(未来は霧の中ですからね!)。
 未来には何が起きるかわからない。事故に遭うかもしれないし、天変地異に巻き込まれるかも知れないし、邪悪な友人に苦しめられるかも知れないし、パートナーに裏切られるかも知れないし、業病に取り憑かれるかも知れないし・・・そういうこと全部起きても(僕の場合は全部起きました)、あとから振り返って「まあ、こんなもんだよね」と思えればそれで「後悔のない人生」だったということになります。
 後悔するかしないかは、ことが済んだ後のマインドセットなんです。事前に「いずれ後悔すること」を回避することはできません。のちに僕をひどい目に遭わせた人たちだって、知り合った時はみんな「いい人」だったんですからね。先のことはわかりません。
 だから、人生が終わる頃に「まあ、良いことも悪いこともあったけれど、総じていい人生だったよ」とにっこり笑えればそれでいいと思います。
 チョンさんはまだお若いので、後悔のことはいまは心配することないです。あと40年くらいしてから、「おお、そろそろお迎えも近いようだから、後悔するのかしないのか、ちょっと人生を振り返って点検してみよう」と(すごく)暇な日にでもお茶でも飲みながらぼんやり考えてみればいいんじゃないでしょうか。

 最後のご質問ですけれど、「最善を尽くして自分の人生を最高にする方法」なんてあるんでしょうか。「最善」とか「最高」いう言葉はあまり使わない方がいいと思いますよ。だって、「最善」も「最高」も「それ以上はない」ということですから、まず自分の実人生についてはそう言い切れる人なんかいないと思いますよ。ということは、自分の人生はすべて「最善マイナス何点」「最高マイナス何点」という減点法で表示されることになります。それつまらないと思いませんか。
 野球で、すべての打席でヒットを打つのが「最善・最高」で、あとは未熟未完成だからダメというようなマインドセットでいるプレイヤーっていないと思いますよ。「3割打てたからランキング入りできそうだ」「2割5分いったから、来季はレギュラーいけるな」くらいの「程度の差」の意味をいつも考えているはずです。それでいいんじゃないですか。減点法じゃなくて、加点法で考えれば。「人生の持ち点」(なんてものがあるかどうかわかりませんが)が「ゼロに比べればずいぶんまし」だと思って暮らす方が楽しいと思いますよ。

 武道的思考とは「無限消失点を目標にすること」だと言いましたけれど、これは目的地さえ合っていれば、どこで修行が終わっても構わないという意味なんです。
 東京駅から新幹線に乗って京都駅へ向かうというのが仮に修行だとします(実際はシリウスなんですけれど、喩え話ですから簡単にしますね)。新幹線に乗った時点で修行開始です。才能がなかったり、武運に恵まれなくて、乗って五分後に品川駅で息絶えても、遠路はるばる名古屋駅までついても、修行者にとっては同じことなんです。「修行をした」という事実だけがたいせつで、どこまで到達したのかも、誰より遠くまで行ったのかも、あるいは誰より速く進んだのかも、すべてまったく何の意味もないことなんです。京都駅にたどりつけなかったことを悔いる修行者もいなし、他の誰かのより一駅先までたどり着いたことを誇る修行者もいない。だって、「天下無敵」駅には誰もたどりつけないんですから。

 武道で言う「無限消失点」が「最善」「最高」とは違うのはわかりますね。「最善」「最高」は現世の出来事なんです。他者との相対的な比較や競争の中で成立する妄想なんです。でも、「無限消失点」はこの世ならざる目標です。あまりに遠いので、他者と比較なんかしても意味がない。(「俺の指先の方がお前の指先よりシリウスに1センチ近いぜ。勝った」なんて言って喜ぶバカはいませんからね)。
 はい、僕からの回答は以上です。難しい質問ばかりでしたので、疲れましたけれど、僕が言いたいことがおおよそお分かり頂けたらうれしいです。

 とりとめもなく、たくさんの質問を投げかけてしましましたが、先生のおこたえをわくわくしながらお待ちしています。長いお手紙を読んでくださってどうもありがとうございます。
いつか内田先生と深くお話をする日が来ることをこころより楽しみにしております。