選挙前に「政治への異議を白票で表現しよう」というキャンペーンが目についた。あえて白票を投じることで、「今の選挙制度では、私たちは自分が満腔の賛意を託すことのできる代表を選ぶことができない。私はいま立候補しているどの候補者に投票したい気分になれない。各党は私が投票したくなるような候補者を探してこい。話はそれからだ」という怒りの意思表示ができるというのである。
でも、現実には白票はただの「無効票」である。「現状に対して強い不満を持っている」という意思表示にはならない。「現状肯定」しか意味しない。
「白票を投じよう」と訴えている人たちは政権与党の「隠れ支持者」であるか、民主政における選挙というものの意味を理解していない人たちか、あるいはその両方である。
白票論者たちの勘違いは選挙を「自分の全幅の信頼を託せる人」に一票を投じることであるというふうにひどく浅く定義していることである。たしかに選挙公報を見ても、街角のポスターを見ても、自分の思いを十全に託せる候補者がいないという選挙区はたくさんあるだろう。だから投票しない。それが自分の意思表示だと思っている有権者が多いとのだ思う。
けれども、民主政における選挙とは「全幅の信頼を託せる人を選ぶ」ことではない。むしろ、「この国に害をなす可能性のある人をできるだけ公職に就けない」ためのものである。気に入った人を見つけ出して、その人を応援するという心楽しむ作業ではなく、むしろ候補者たちの悪意や嘘や不誠実や弱さを目を凝らして点検するという気鬱な作業なのである。
英語にlesser evil という表現がある。「より少なく悪い方」という意味である。選挙で私たちが投票する先は「より少なく悪い方」である。
目の前には「これはよい」と確信できるような候補者が一人もいない。その中から「よりましなアジェンダ」を掲げ、それを「より誠実に履行しそうな方」を見きわめる。だから、選挙が終わった後に当選者を囲んで支持者が万歳を叫んだり、感涙にむせんだりするのは「民主政後進国」の風景なのである。民主政先進国では、自分が投票した当選者に対して向ける場合でさえ、そのまなざしにはつねに猜疑と不信が含まれていなければならない。
これは合衆国憲法の批准の過程で、「連邦政府に州政府より大きな権限を与えよ」と説いた「フェデラリスト(連邦派)」と呼ばれたアレクサンダー・ハミルトンの言葉である。
独立して10年、まだ米国がこれからいかなる国になるのか国民的合意ができていない時期に「連邦派」たちは民主政は共感と同質性をベースにしてはいけないと説いた。民主政は公人に対する猜疑心をベースにすべきだ、と。
英国から独立した13州はばらばらの「ステート(State)」だった。ステートは同時期に同地域から入植した人たちが形成した政治単位だから同質性が高い。ステート毎にそれぞれ憲法も違う。独立直後の連邦政府にはいまだ実体がなかった。それゆえ、これまで通りステートが政治的実力を保持し、連邦政府はただ名目上のものでいいと考えている州権派が数多くいた。
連邦派はそれに対して、「それでは米国の独立が維持し難い」と考えた。この時、英国、フランス、スペインは新大陸に巨大な土地と権益を有していた。彼らが介入してきて、合衆国が三つか四つに分断されて、「代理戦争」が起きたらどうするのか。英国軍がヴァージニアに侵攻してきた時にコネティカットが「よそのステートのことは知らない」と「ステート・ファースト」を言い出したらどうするのか。連邦政府と州政府が対立した時にはどうするのか。その場合、おそらく多くの州民はことの理非にかかわらずステートの側に立って銃を執るだろう。共感と同質性で結ばれた共同体は「ことの理非にかかわらず」、自分が属する政治単位のために戦う。だからステートに軍隊を持たせてはならないのである。ハミルトンはそう書いた。
「権力は人々が心を許せる者の掌中にあるより人々が猜疑の眼を以て見守る者の掌中にある方が無難だからである。」(『ザ・フェデラリスト』25)
これは民主政について述べられた言葉の中で最も深い知見の一つだと私は思う。
民主政は「心を許せる者」に全権力を委ねるためのシステムではない。「心を許せない者」が決して権力を恣意的にふるまう自由を与えないための仕組みなのである。
そう言い切れるところからしか民主政の成熟は始まらない。(「週刊金曜日」10月30日)
(2024-11-04 09:49)