東洋経済のインタビュー

2024-06-30 dimanche

―アメリカの学生たちを中心にガザ侵攻に対する激しい抗議活動が起こりましたが、若い人たちはたんにガザ侵攻だけに怒っているのでしょうか。人種差別や気候変動、あるいは、最近の大人たちなど多岐にわたって怒りをぶつけているように見えます。

 そうだと思います。今の世界は「今さえよければ、自分さえよければ、それでいい」いう視野狭窄的なものの見方が支配的です。だから、人々は人口減や気候変動など長いタイムスパンの中で考察すべき危機に対しては考えようとしない。世界どこでもそうです。世界を見回しても、グローバルリーダーシップを取ることのできるだけの宏大なビジョンを語る政治家がいない。若い人たちが苛立つのは当然だと思います。

―日本では抗議運動もささやかですし、報道も下火な感じがします。

 日本はそもそも「抗議」とか「反抗」とか「抗命」ということに対して強い抑圧がかかる社会です。いったん大勢が決まると、全員がそれに流されてゆく。あえて異を唱える人は「空気が読めないやつ」として排除される。
 外交も同じです。国際社会の大勢がどちらに流れるかを日和見している。ガザの虐殺についても、日本には外交的な哲学がない。ただアメリカの尻についてゆくだけです。いまガザで行われているのは「ジェノサイド」であることは日本政府だってわかっているはずです。けれども、アメリカに逆らうわけにはゆかない。遠い中東のことについて、どうせ日本には何もできることなどないのだから、あえてアメリカに逆らって自分たちの立場を明らかにするようなリスクを冒してもメリットはない、そう思っている。
 でも、これは国際社会に対してあまりに無責任だと思います。現に、世界のさまざまな国がこの問題についてそれぞれの見識を語っています。日本も独自のオピニオンを語るべきです。東アジアの大国として、国際秩序がどうあるべきか、世界に向けて発信しなければいけない。日本政府はその責任を果たしていません。

―何か諦めているのでしょうか。

 国際社会に対して「世界はこうあるべきだ」というメッセージを発信することは、国連に加盟している193のすべての国民国家にとっての義務だと思います。それがどんなに夢想的なものであっても、それでもその国がどういう未来をめざしているのかについては明らかにする義務がある。しかし、日本の政治家で国際社会に向けて自分の哲学に基づいてメッセージを発した人は鳩山首相が最後だったと思います。それ以後、アメリカ追随以外のメッセージを発信した人はいません。

―つまり日本の世界的なプレゼンスがどんどん下がっていると。

 そうだと思います。国際社会におけるプレゼンスは、軍事力と経済力だけで決まるものではありません。指南力のあるメッセージを発信する力も、国力の重要な構成要素です。それは軍事や経済とは違う、もっと叡智的で道義的なものです。「日本は今の世界をどう見ているか」「日本はこれからの世界はどうあるべきだと思っているか」を論理的で説得力なる言葉で語ること、これはあらゆる政治的リーダーの義務ですけれども、今の日本にそんなことを本気で考えている政治家はいません。

―かつてはもっと雄弁だった?

 主権国家だった頃は、日本は固有のプレゼンスを持っていたと思います。国際連盟ができたのは1920年ですが、大日本帝国は常任理事国に選ばれました。アメリカが議会の反対で加盟できなかったので、常任理事国はイギリス、フランス、イタリア、日本の四国でした。今から100年前の日本にはそれだけのプレゼンスがあった。でも、軍部が暴走して戦争に負け、明治の先人たちが営々として築いたものをほとんど失った。でも、60年代から奇跡的な経済成長を果たして、80年代にはアメリカと並ぶ経済大国になった。短期間に国運を再生させた先人の努力は評価に値すると思います。
 その時代のアメリカ人は日本に驚異的な復活に対して「畏怖」に近い感情を持っていましたす。映画を観るとそれがわかります。例えば、『ゴースト』(1990年)では、主演のパトリック・スウェイジは日本語を必死に勉強していますが、それはメインの取り引き相手が日本人なので日本語会話能力がエリート社員であるための必須条件だったからです。『ブレードランナー』(1982年)でも日本の製薬会社の広告が画面一杯に広がり、ハリソン・フォードが日本語しかしゃべらない親父相手にうどんを注文する印象的な場面もありました。東洋に日本という不思議な国があって、その国の文化や商品がアメリカ社会に深く入り込んでいる。そのことに対する驚きと微妙な不快感が画面からにじみ出していた。
 平和憲法がありますから、日本が軍事大国になるリスクはない。でも、経済力で世界を支配するだけの潜在能力は持っている。当時の国際社会からの評価はそういうものだったと思います。80年代には、世界の時価総額トップ50企業のうち32社が日本企業でしたし、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われ、「日本型経営モデル」が真剣に研究された。でも、バブル崩壊で、日本は経済活動についての指南力を喪失しました。その後も20年近く日本はアメリカに続くGDP世界二位の経済大国だった。でも、もう世界に向けて「日本はこうやって生きてゆく。みんなも日本に従え」という強い言葉を発することはありませんでした。

―政府や政治家のみならず、メディアもそして個人も「声を上げること」のリスクが大きくなっている感じがします。人と違うことを声を大にして主張することが損になってしまうというか。

 もともと日本社会は同調圧力が強い国でしたが、バブル崩壊以後の「失われた30年」に市民の規格化は過剰なまでに進行したと思います。これは日本が貧乏になったせいです。「パイが縮んで来る」と人々は「パイの分配」についてうるさいことを言い出す。自分の取り分を確保するためには、他人の取り分を削らなくてはならないと考えるからです。どうやって他人の取り分を減らすか。そのために、メンバー全員を何らかの基準で格付けして、スコアの高いものにたくさん与え、スコアの低いものの取り分を減らす。それが一番フェアな分配方法だという話になった。
 格付けに基づく傾斜配分という発想は、一見すると合理的に見えますけれど、実はかなり危険なものです。というのは、全員を格付けするためには、あらかじめ同質化する必要があるからです。全員に同じことをやらせないと、数値評価はできません。だから、「誰でもできることを他人よりうまくできる人間」にハイスコアを与えるというルールを採用した。「生産性」とか「社会的有用性」とか「所得」とかあるいは端的に「成功」を数値化して、それを基準に国民を格付けすることにした。でも、すでに金や権力を持っている人間にハイスコアを与え、貧しい人に罰を与えるような傾斜配分なら、ただ格差が拡大するだけにしかならない。
 それに、全員が同じことをやって、ただ相対的な優劣を競っているだけの社会で「新しいもの」が生まれるはずがありません。お互いの足の引っ張り合いをし、「出る杭」を打ち、「水に落ちた犬」を叩く・・・だけしかやっていないんですから。そんな社会で自分の見識を貫こうとするのは難事業です。少しでも人と違うことを言ったり、したりすると弾きだされる。
だから、今の若い人たちは「浮く」ことを病的に恐怖しています。集団から「浮く」というのは、要するに「競争から脱落する」ことです。だから、デモもストも起きないのです。そういう抵抗の運動を始める時は、最初に誰かが「誰もしないことをして、誰も言わないことを言う」というリスクをとらなければなりません。でも、抵抗の旗を立てても、誰もついてこなければ、その人は一人だけ「浮く」ことになる。だから、怖くて誰もあえて戦おうとしない。そうやって学生運動もなくなったし、労働組合も機能しなくなった。

―「勝ち組」の個人が豊かになる一方で、国や地域共有の共有資産、コモンウェルスについては劣化している感じがします。日本は共同体として貧しくなっているのでしょうか。

 全員が競争相手の取り分を「減らす」競争をしているわけですから、国が豊かになるはずがありません。そもそもある国が豊かであるかどうかは、個人資産の総和ではなくて、国民全員がアクセスできる「公共財」の豊かさに基づいて考量されるべきものなんです。三流の独裁国家では独裁者とその周辺が国富の大半を私財として占有しています。自然資源が豊富な国だと、独裁者とその取り巻きの私財は天文学的な数字になります。でも、そんな国を「豊かな国」と呼ぶ人はいません。
 国の豊かさは公共財の多寡で決まります。教育であれ、医療であれ、文化活動であれ、国民が誰でも無償でアクセスできる資源が豊かであれば、たとえ個人資産が貧しい人でも、不安なく豊かな生活が送ることができます。でも、公共財が貧しければ、例えば、社会福祉制度がないとか、国民皆保険制度がないとか、学校教育がすべて有償であるとか、図書館や美術館やコンサートホールが高額の入場料を徴収するとかいう社会だと、貧困層はひたすら貧困化するだけで、社会的上昇のチャンスがない。
 今の日本は公共財がどんどん貧しくなっています。「民営化」という名の下に公共財を安く売り払って、権力者とその取り巻きたちの私財に付け替えている。それがすさまじい勢いで進行しています。公共財を自分の私財にした人たちが「成功者」と呼ばれ、現代日本社会の超富裕層を形成しています。一方、貧しい人たちはそれまでアクセスできた公共財が「立ち入り禁止」になる。それを歴史用語では「囲い込み」と呼ぶわけですけれども、公共財が乏しくなると、貧しい市民たちはどれほど劣悪な雇用条件でも受け入れざるを得なくなる。企業はそうやって人件費削減を行っている。
 国力というものをどういう指標で計るのか、いろいろ考え方はあると思いますが、僕は「集団としてのパフォーマンスの高さ」で計るべきだと思っています。平時に効率的に機能していることだけではなく、危機的状況に遭遇すると、それに対応して適切に変容して生き延びることができる能力を僕は「集団の力」としては重く見ます。
 集団の一部に天文学的な私財を積み上げている人がいて、大多数が貧しく、ろくな教育も受けられず、医療的ケアも足りないし、文化資本も持っていないというような国は「国力が低い」と僕は評価します。そういう国は危機耐性が低いだけではなく、そこではいかなる「イノベーション」も起きないからです。イノベーションというのは、学術的なものでも、芸術的なものでも、資源がランダムに分散しているところでしか起きない。集団の全員にチャンスがあるところでしか起きない。
 マーケティングの用語に「アーリーアダプター」という言葉があります。イノベーターが前代未聞の斬新なアイディアを提示した時に、まっさきにそれに反応して、イノベーターを支援し、その意義を他の人たちに伝え、説明する人たちのことです。天才的なイノベーターはどんな集団にも生まれてきますが、アーリーアダプターの頭数は歴史的条件に従って消長します。アーリーアダプター層が分厚い社会では、イノベーターはその才能を十分に発揮することができますが、この層が薄い社会では、どれほど天才的なイノベーターが登場しても、誰もその価値に気づかない。
 今の日本はアーリーアダプターの層がどんどん薄くなっています。アーリーアダプターの条件はただ「変化に対する感度がよい」というだけではありません。「暇があって、小銭がある」というのが必須の条件です。朝から晩まで働き詰めで、かつ財布が空っぽというような人は「新しいこと」なんかに興味を持つことができません。この「暇があって、小銭がある」人たちが一定数存在するためには分厚い「中産階級」が必要です。アーリーアダプターは「中産階級の副産物」だからです。
 戦後の英国は「ゆりかごから墓場まで」の手厚い福祉制度を整備しました。その結果、それまで文化資本にアクセスする機会がなかった労働者階級の子どもたちの中から大学に進学したり、楽器を演奏したり、絵を描いたりする者が出て来た。60年代英国はロックミュージックやファッションや映画や文学でいきなり世界のトップランナーになりますが、それは福祉制度の受益者の子どもの世代のもたらしたものです。イノベーションは「中産階級の副産物」だというのはそういう意味です。
 分厚い中産階級があり、そこから「暇と小銭がある層」が生まれると、イノベーターたちが縦横に活躍する環境が整う。そこから生まれる「新しいもの」が学術的な世界標準を制定することもあるし、新しい芸術分野を創り出すこともあるし、画期的なテクノロジーを生み出すこともある。
 50年代末から80年代末までの30年間の日本もその状態に近かったと思います。活気があった。今の日本が失った最大の人的資産はこの「アーリーアダプター」、「暇と小銭がある人たち」だと僕は思います。今の日本だと、こういう人たちはたぶん「寄生虫」とか「フリーライダー」とか呼ばれて排除の対象にしかなりません。それなら、今の日本から「新しい世界標準」が生まれるチャンスはほとんどないと言ってよいと思います。

―「奪い合い」が続くと人も国は疲弊しそうです。日本がなんとか再生する上でカギとなるのは。

「コモンの再生」を僕は提案しています。「日本的コミューン主義」と言ってもいい。日本の伝統的な政治思想を淵源とするものですが、違うのは公共財を豊かにすることを通じて非暴力的に、長期的に階級再編を促すという路線を採用していることです。
 従来のコミュニズムの革命論は、権力者、富裕者から権力と富を暴力的に奪い、それを民衆に分配するというプログラムでしたけれども、実際には前の権力者たちが所有していたものは多くの場合、次の権力者となった革命家たちの「私財」として占有されてしまい、公共財として共有されることはなかった。
 どうすればそのピットフォールに陥らずに済むのか。僕が代案として提出するのは、他人の権力や富を力ずくで奪うことによってではなく、市民一人一人が、自分の持っているささやかな財を「公共」のために差し出すというかたちで「公共を再建する」という道です。
 権力や富は支配層が独占することができますが、独占できないものがある。それは文化資本です。本を読んだり、音楽を演奏したり、スポーツや武道を練習したり、伝統芸能を稽古したり、宗教的な修行をしたりすることによって人々は知性的、感性的に成熟を遂げることができるわけですけれども、これらはすべての市民に習得の機会を開放することが可能であり、かつほとんどお金がかからない。
 そもそも今の日本の支配層は文化資本に興味がありません。知性的であることにも、ゆたかな感情を持つことにも、武道や伝統芸能に習熟することにも彼らは関心がない。しかし、文化資本を獲得して、世界の成り立ちや人間の本質について深い洞察を得ることには十分な現実変成力があります。時間はかかりますけれど、市民的成熟を遂げた市民が多くなればなるほど、その社会は「住みやすいもの」に変わってゆくはずです。僕はそう信じています。
 僕は今神戸で道場を開いて、合気道を教えていますけれど、武道の技術と知恵は、権力や財貨と違って、与えても目減りすることがありません。門人たちはその技術と知恵を習得して、次は自分の道場を開いて、自分の門人に伝える。その門人たちはまた・・・というふうに、いくら贈与しても、文化資本は目減りすることのない無尽蔵の富なのです。文化資本の場合、贈与と嘉納のシステムがどれほど活発に機能しても、それによって誰も迷惑する人はいない。誰かの所有物を奪うわけではありませんから。
 長いタイムスパンで見ると、結果的に市民的成熟度の違いによって、社会が階層化されるようになると思いますけれど、それには「大人」の方が「子ども」よりも社会的上位に位置づけられるということです。「大人」が「子ども」を収奪するとか、虐待するいうことはありません。そういうことをしないのが「大人」なんですから。そして、「大人」になる機会が万人に開かれている社会を創り出すことを僕は「コミュニズム革命」だと理解しています。僕が言う「コモンの再生」というのは、とりあえずは文化資本を公共財として、それへのアクセス機会を最大化するということです。

―私たちメディアはそういうのに「スキル」っていう名前をつけて、それでお金を稼ぐことを促している気がしますが......。

 スキルで稼いじゃいけないんです。世界の成り立ちや人間の本質についての知にアクセスする機会は、すべての人に無償で提供されなければならない。人が成熟するための道を塞いだり、課金したりしてはいけない。人が成熟して、世の中が住みやすくなることから受益するのは社会全体なんですから。市民たちが成熟することで受益するのはその人個人だけではなく、社会全体なんですから。