日仏右翼を見比べると

2024-05-29 mercredi

 前にも書いたが、権藤成卿の『君民共治論』が復刻されるので、その解説を書いている。この一年間ほど権藤の著作や研究書、周辺の人々-内田良平、頭山満、福澤諭吉、金玉均、宮崎滔天、北一輝などなど―の本を読んで来た。
 私は大学院時代にはフランス19世紀の極右思想(ファシズムと反ユダヤ主義)を研究していた。論文も書いたし、研究書も訳した(ベルナール=アンリ・レヴィの『フランス・イデオロギー』とノーマン・コーンの『シオンの議定書』)。半世紀近く経ってからほぼ同じ時期の日本の右翼の書き物を読んでいる。不思議な符合だ。
 彼らの語る「物語」には東西の違いはそれほどない。「原初の清浄」がさまざまな「異物」の混入によって穢され、衰退している。だから、「異物」を摘示し、それを抉り取れば、再び集団はその活力と豊かさを回復するという物語である。フランスでは回帰すべき「ほんとうのフランス」にはやはり王が君臨する。日本の場合、回帰すべき先は「君側の奸を排した君民共治」である。中間権力(蘇我氏、藤原氏、平家、足利氏、徳川氏)は排除されているので聖王と良民の間にはいかなる隔たりもなく、君民の思いは一致する。ややこしい官僚機構も繁文縟礼もない。権藤成卿を読んでいると「こういう世の中だったら、確かにいいなあ」とつい思ってしまう。
 さすがに今のフランスには「王党派」はいないが、日本には「天皇制」がある。天皇制という太古的起源をもつ制度と立憲デモクラシーという近代的制度をどうやって両立させるのか。それが日本人に突きつけられた政治的宿題である。どこかにできあいの「正解」があって、それを書き写せば済むものではない。自分の頭で考えるしかない。私はこれを「豊かな問い」だと思っている。この問いに正解はない。でも、正解のない問いに向き合うことで人は政治的成熟を遂げるのだ。(信濃毎日5月10日)