『街場の米中論』のまえがきとあとがき

2023-09-25 lundi

『街場の米中論』(東洋経済新報社)がもうすぐ出る。その「まえがき」と「あとがき」を公開しておく。

 みなさん、こんにちは。内田樹です。
 今回は「米中論」です。
 僕の主宰する凱風館寺子屋ゼミで少し前に通年テーマ「アメリカと中国」でゼミをやりましたが、そのときの僕の発言を文字起こしして、それに大幅に加筆したものです。
 ゼミでは毎回一人のゼミ生が演題を選んで発表をします。それについて僕が30分ほどのコメントを加えて、それからディスカッションをします。この形式は20年前の大学院時代のゼミから変わりません。2011年に大学を退職してからは、ゼミの開催場所が大学の教室から道場に移りましたが、火曜五限という開始時間はそのままでした。参加するゼミ生はさすがに変わりましたが、それでも「卒業」するまで平均5年間くらいは在籍してくれます(最初からずっと履修している方もいます)。
 僕は事前に発表者からどんな内容の発表をするのか訊きません。当日発表を聴いてから、その場で思いついたことを話します。発表そのものについての評価とか査定ということはしません。ですから、僕のコメントは発表の出来不出来についてのものではなく、「話を聴いているうちにふと思いついたこと」です。「そういえば、いまの話を聴いて思い出したことがあるんだけれど」という話をします。経験的にはこれが一番ゼミの進め方としては生産的であるような気がします。
 ディスカッションに参加するゼミ生たちもみんな僕のこのやり方を踏襲し、次から次へと「いまの話を聴いてふと思い出したこと」を語ります。「いまの話」には発表の主題だけに限りません。中に出てきた固有名詞や、引用された文献の一行や、とにかく「そういえば」という一文さえ頭につけたら、何を話してもらっても構わない。
 そうすると最初の発表からは予想もしなかった「あらぬ彼方」へ話が転がってゆきます。そして、しばしば発表が始まったときには誰も予想していなかった思いがけない話題で一同盛り上がる...ということが起きます。こういうゼミの展開が僕はたいへん気に入っています。
 もちろん「そういうのが気に入っている」というだけで、これが「正しいゼミの進め方」であるなどとは申しておりません。ふつうの大学の先生が聴いたらたぶん「こんなのはゼミじゃない。ただの雑談だ」と怒り出すかも知れません。でも、僕がゼミでめざしているのは、あるテーマについて有用な知識を身につけるということよりもむしろ、ゼミ生たちに知的高揚を経験してもらうということです。
 ですから、僕はゼミ発表について「査定」とか「評価」ということをしません。別にゼミ生たちは単位が要るとか卒業要件を満たすとかいうために来ているわけではありません。みんな仕事があって忙しい身体なのにその貴重な時間を割いて凱風館まで来てくれる。それは他では経験できないことを経験するためだと思うからです。
 たしかに人の発表を聴いて、あらたな知識や情報を仕入れることもとても有意義なことですけれど、それ以上に、「そういえば」がきっかけになって、自分の記憶のアーカイブを点検するという作業が始まる方がたいせつだと思う。
 この「ちょっと待って、その話を聴いて、いまふと思い出したことがある。あれは何だったんだっけ...」というふうに自分の記憶の中に入り込むことは知性の活性化にとって、とてもとても大切なことではないかと僕は思います。
 というのは、ひとりひとりの記憶のアーカイブの中には、原理的には、生まれてから見聞きしたすべての情報が収納されているはずだからです。表層にあって「すぐに取り出せる記憶」とは別に「そんなことを記憶していることさえ忘れていた記憶」がその下には広がっています。深々と、底なしに広がっている。
 「記憶していたことさえ忘れていた記憶」の壮大な図書館的な広がりを僕たちは全員が所有しています。その容量にもそれほどの個人差はないはずです。ただ、ほとんどの人は「すぐに取り出せる記憶」だけを「自分の記憶」だと思っていて、「記憶していることさえ忘れていた記憶」がその下に深々と広がっていることをふだんは意識していません。それを「記憶」だと思ってもいないし、むろん活用することもほとんどない。僕はそれはすごくもったいないことだと思うんです。 
 推理小説で名探偵が謎を解くのはだいたい「自分がそれを記憶していることさえ忘れていたことをふと思い出す」というしかたで起きます。他の人たちが見過ごしている何でもないものに名探偵の目がとまり、「おや、これは前にどこかで見たことがあるぞ...あれはどこだったか」と記憶を探っているうちに、思いがけない「つながり」を発見する。よくありますよね。
過日たまたま『ダイ・ハード3』を見たんですけど(もう5回目くらい)、ジョン・マクレーン刑事(ブルース・ウィリス)が銀行のエレベーターに乗る場面で、NY市警の刑事だと名乗る男がつけているバッジを見て、その四桁の数字を見て「おや、これは前にどこかで見たことがあるぞ」と記憶を探るという場面がありました。そのせいでマクレーン刑事は死地を脱するわけですけれど、そういうことができるから彼は「なかなか死なない(die hard)」刑事なんです。
 凡庸な警官と天才的な探偵を切り分けるのは、この「自分が記憶していることさえ忘れていたことを思い出す能力」ではないかと僕は思います。シャーロック・ホームズもエルキュール・ポワロもその手の記憶活用術の天才です。でも、この能力は物語の探偵たちの独占物ではなく、訓練によってかなりの程度まで開発することができるのではないかと僕は思っています。でも、そのためには誰かが「ちょっと待って。いまの話を聴いているうちに、ふと思い出したことがあるんだ」と言い出したときに、「おい、話題を変えるなよ」というふうに咎め立てたりしないで、とりあえず黙って耳を傾けるという習慣をお互いに認め合う必要があります。
 グレゴリー・ベイトソンの『精神の自然』の中に「知性とは何か」をめぐる小噺があります。ある科学者が彼の巨大コンピュータに「機械は人間と同じように思考できるか?」という問いを入力します。コンピュータはしばらくごとごとと音を立てて演算をしてから答えをパンチした紙片を吐き出しました(1970年代の話なので、まだ答えはディスプレイ表示じゃないんです)。そこにはこう書かれていました。
That reminds me of a story.
 訳すと、「それでこんな話を思い出した」です。
 コンピュータは「知性とは何か?」という問いには答えず、その代わりに a story を思い出しました。どうやらベイトソンはそれこそが知性の本来の働きであると考えていたようです。知性の最も創造的な働きは、問いと答えというかたちで完結するのではなく、問いというかたちで示されたある一つのアイディアをきっかけにして「一つ話を思い出す」ことのうちにある。素敵な考え方だと思いませんか。いずれにせよ、この小噺を読んだときに、多くの読者の頭が「問いに答えることよりも人間的な知性の使い方とは何か?」という問いをめぐって高速で回転し始め、いくつものstoryが読者たちの脳裏に浮かび上がったことは間違いないと思います。
 
 この本に収録されたのは、ゼミ生の発表のあとに僕が「いまの話を聴いて思い出したことがある」という前口上に続いて語った話をまとめたものです。ですから当然論文のようにまとまったものではありません。あらかじめ僕の側に「言いたいこと」があって、それを出力しているわけではありません。人の話を聴いているうちに、「思い出したこと」があるので、それを話しているんですから。
 その話を文字起こししたものを読んでいるうちにさらに「ふと、思い出したこと」があって、それを加筆して本書ができました。その年度のゼミの通年テーマは「アメリカと中国」でしたけれど、ゼミ生の発表が圧倒的にアメリカについてのものに偏っていましたので、ほとんどアメリカ論です。中国については、その世界戦略と地政学的コスモロジーについて話したことだけです。その点ではかなりバランスの悪い本ですから「米中論」を名乗るのは羊頭狗肉なのですが、中国については、情報量が圧倒的に少ないのですから、そこはひとつご容赦ください。
 では、最後までゆっくりお読みください。まと「あとがき」でお会いしましょう。
   

「あとがき」
 みなさん、最後までお読みくださって、ありがとうございました。
 いかがでしたでしょうか。なかなか面白かったけれど、「同じ話」が多過ぎる...と僕自身はゲラを通読して思いました。
 本書の中でも同じ話がけっこう繰り返されていますけれども、それだけではなく、他の本に書いている話がここにもよく出てくるんです。読者の方から「あのさ、その話『若者よマルクスを読もう』で読んだよ」とか「それ白井聡さんとの対談本で読んだよ」とか言われそうです。
 学術論文だとこういうのは「二重投稿」と言って、やってはいけないこととされているのです。でも、仕方がないんですよ。この本の元になっているのは、寺子屋ゼミだからです。その日ゼミ生が発表したことについて、その場で僕がコメントをするのですから、いきなり「本邦初演」の話を滔々と語り出すというわけにはゆきません。とりあえず「前に一度した話」を足がかりにして、そこからぽつぽつと話を始めることになります。
 もちろん、「これ、前によそでした話だよな」という自覚は僕にはあるんです。でも、話を聴いている30人ほどのゼミ生のほとんどにとっては「初めて聴く話」です。そういう場合に、「前にどこかで一度した話は二度としない」というような厳密なルールを適用するわけにはゆきません。
 「一つ話」という日本語がありますが、これは「いつも得意になってする同じ話」のことです。こういうのが、僕の場合もやはりいくつかあります。特に、わかりにくい話を筋道立てて説明しようとするとき、ふと思いついた喩え話とか具体的事例を使ったらうまく説明がついたという「成功体験」があると、そういう話はなかなか手離すことができません。
 例えば「アメリカ合衆国憲法は常備軍を認めていない」という話を僕はけっこうあちこちに書いています。これが日本の改憲論者たち(その多くは対米追従を「リアリズム」と思い込んでいる人たちです)に対する批判としてはかなり有効だと思ったからです。実際に、この論件については、「自称リアリスト」の方々から一度も反論を受けたことがありません。みんな、そんな話聞いたこともないような素知らぬ顔をしてスルーしています。その様子を見ると、「なるほどこの例示は有効なんだな。そこは触れて欲しくないところなんだ」とわかる。それが分かると、こちらも「じゃあ、しつこく同じ話をしてやるぞ」という気になる。
 それは仕方ないんです。別に同じ話を繰り返して稿料を稼ごうというような「せこい」ことをしているわけじゃないんですよ。効果的な例示はなかなか手離せないということなんです。そこをご諒察頂きたいと思います。
 アメリカの連邦派と州権派の対立ということもあちこちに書いてきました。読者によっては「おい、またかよ」と眉根をしかめた人もいると思います。お気持ちはわかります。でも、これは現在のアメリカの国民的分断を分析するときには通り過ぎることのできない歴史的事実なんです。なんといっても、そこから以後250年にわたるアメリカの統治原理上の対立と国民的分断が始まっているんですから。
 でも、アメリカの今の政党政治の対立を解説するときに、ジャーナリストは「もとをたどれば今から250年前...」というような話はまずしてくれません。というのは、ジャーナリストの扱うのは「ニューズ」だからです。新奇性と速報性が彼らの提供する情報の主要な価値を形成している。「今から250年前にこんなことがありました」というのは「周知のこと」ですから、ニュースバリューはありません。ニュースバリュー・ゼロのことを書くために限られた紙面を割くことはできない。ですから、彼らは「現在のこの政治的対立の起源は今から250年前に遡る」というような話は書かない。書かないだけならいいんですけれど、「ニューズ」だけを読んで自分のリテラシーをかたちづくってきたジャーナリストはついにはそのような歴史的事実があること自体を知らないというところまで退化してしまう。
 僕だって、同じ話を何度もしたくはないんですよ。合衆国憲法第八条十二項のことや、連邦派と州権派の話を新聞記事で繰り返し読むことができるという情報環境が日本社会に整備されているなら、僕だって安心して違う話をしますよ。でも、どの新聞読んでも、ネットニュースを読んでも、そんなことは誰も書いてくれない。
 僕が同じ話を繰り返すのは、僕に代わってその「同じ話」を広めてくれる人がほとんどいないからなんです。伝道と同じです。伝道師が僕の他にたくさんいるなら、ニッチを変えて、これまで誰もしてない話でもするか...という気にもなるんですけどね。これが少数派のつらいところです。
 というのが「内田はどうして同じ話をするのか」という読者のみなさんの疑問に対する僕からの言い訳です。これを以て「あとがき」に代えたいと思います。なにしろ、ゲラを通読して最初に思ったのが「同じ話が多いなあ...」ということだったんですから。
 でも、さいわいなことに、それを除くと、本書については「この辺が欠陥だなあ」というシリアスな反省は今のところありません。あと何年か経って、ここに書いたことのいくつかが「事実誤認」であることがわかったり、「予測が大外れ」であった場合には改めて反省の場を設けさせて頂きたいと思います。