受験についてのインタビュー

2023-08-29 mardi

ある教育雑誌から受験についてのインタビューを受けたので、採録。

――今の教育や受験制度についてどう思われますか。
内田 受験は、同学齢集団内部で「誰でもができること」を「他の人よりうまくできる」競争です。でも、「競争」と「学び」は違うものです。そして、僕が経験に言えるのは、相対的な優劣をどれほど激しく競わせても、それによって集団全体の知的なパフォーマンスが向上することはないということです。競争を強いると個人的には力を伸ばす人もいますが、集団全体としては弱くなる。
 僕がかかわっていたフランス文学研究の世界でも、就職が難しくなってきてから、受験同様、研究者の間で優劣を競うようになりました。限られた教員の専任ポストを巡っての競争ですから、当然厳密な査定が必要になります。そして、精度の高い査定をするためには、「研究者ができるだけ多い分野」で「他の人より優れた業績」を上げることが求められます。当然ですね。できるだけ母数が多い集団に属している方が、競争は厳しいけれども、査定の客観性は高くなる。僕のように「他に誰も研究する人のいない分野」の研究する人間は、うっかりすると仏文学界内部では「母数ゼロ」になる。比較する対象がいないから「査定不能」とみなされる。「査定不能」ということは「零点」と同義です。それでは困るので、精密な査定を求める若い研究者たちが19世紀の小説に集中することになりました。この分野には日本人の研究者で世界レベルの学者が揃っていたので、査定が厳密であると信じられていたからです。
 査定が厳密であるのはむろんよいことです。でも、その結果、若く野心的な研究者たちは査定の厳密な分野に集中し、専門家以外にはさっぱり意味のわからないトリヴィアルな研究に打ち込むようになった。その分野での研究レベルはたしかに向上しました。レベルは向上したのですが、フランス文学科に進学してくる学生はむしろ減ってしまった。当たり前ですよね。だって、学会内部で「内輪のパーティ」をしているわけですから、日本の中学生や高校生に向かって「フランス文学研究って面白いよ。君たちも仏文科に来て、いっしょに楽しく勉強しようよ」と語りかける学者がいなくなってしまった。 でも、日本の子どもたちに向かってフランスの文学や哲学に触れることがいかに愉快な知的活動であるかを告知し宣布する仕事を仏文学者がしなければ、そんな面倒な仕事は誰も代わってはしてくれません。そして、競争や査定に夢中になっているうちに、はっと気がついたら、大学の仏文学科に進学してくる学生がいなくなってしまった・・・進学してくる学生がいなければ、仏文学科を設置しておく理由がありません。仏文学者のための大学教員のポストそのものがなくなってしまった。そんなふうにして、仏文学科でレベルの高い競争をして、限りあるポストを争っているうちに、仏文学科そのものがこの世から消滅してしまった。笑えない話です。
 学問は集団全体の知的パフォーマンスを向上させるために存在します。仮に卓越した学者がいても、彼らの業績の価値が集団的に認知され、知的資源として「公共的に」利用される手立てが整っていなければ、その業績は生かされない。重要なのは集団的なしかたで知性を活性化させることです。
 
 受験勉強も同じです。「みんながしていること」を「他の人よりうまくやる」競争ですから、特定分野での知識や技能は向上するでしょう。でも、集団全体の知的水準は下がります。だって、「他の人がしないこと」に興味を持つことに対して強い規制がかかるからです。「そんなことをしても受験の役にまったく立たないぞ」という言葉で、子どもたちのさまざまな知的関心が抑制されてしまう。
 でも、人類の歴史が教えているのは、「さしあたりは受験の役に立たない」ような知的活動がしばしば集団的な規模での知的ブレークスルーをもたらしてきたということです。受験勉強をさせることには社会的な意味があることは僕も認めます。でも、その代償として、場合によっては致命的な知的リスクを集団的な規模で引き受けているということについてはもっと警戒心を抱くべきだと思います。

――いま重要視されている英語教育についてはどうでしょうか?

内田 いまの英語教育は、外国語の学び方としては目指している方向が違うように思います。外国語を学ぶことはとても大事です。人間的成長のためには「不可欠」と言ってもよい。でも、今学校でやっている英語教育は「人間的成長」ということを目標にはしていないように思えます。
 外国語の学習には「目標言語」と「目標文化」があります。「目標言語」が英語の場合、目標文化は「英語圏の文化」です。その言語を学ぶと、それを足場にしてその言語圏の文化の深みにアクセスできる。母語の外に出て異文化圏に入り込み、母語とは違うロジック、違う感情を追体験すること、それが外国語を学ぶことのもたらす最大の贈り物です。母語には存在しない概念に出会い、母語には存在しない時間意識や空間意識の中に入り込み、母語には存在しない音韻を母語を語っている限り決して使わない器官を用いて発音する・・・。これはどれも知性的にも感情的にもきわめて生産的な経験です。
 例えば、フランス語には複合過去と半過去という二つの過去時制がありますが、このニュアンスの違いは日本語話者にはなかなか理解できません。過去時制が二つあるのは、フランス語話者が時間の流れを「完了」と「未完了」の二つの相で理解するという特異な時間意識を持っているからです。時間意識が違えば、世界の見え方も違うし、人間の行動の解釈も違うし、極論すれば宇宙観まで変わる。
 自分たちとは全く違う枠組みを通じて世界を見ている人たちがいるという事実を知ることは、個人の人間的成長だけでなく、人類が共同的に生きてゆくためには必須のことです。
 外国語学習は何よりもまずそのような人間的事業として営まれるべきだと僕は思いますが、現在行われている英語学習は「リンガフランカ」としての英語、コミュニケーションツールとしての英語の習得が目的化していて、もはや「目標文化」というものがありません。「目標言語」はあるが、「目標文化」はない。
 実際に、ある時期から大学の英米文学科に進学する学生の選択理由のほとんどが「英語を習得して、英語を活かした職業に就きたい」になりました。英米文学を研究したいという理由で学科選択をする学生が全体の数パーセントしかいないということなら、英米文学科には存在理由がありません。英文学科に進学するよりもネイティブ・スピーカーが教える英語学校に通った方がいい。その方が学費も安いし、無駄な単位を取る必要もない。そうやって日本中の大学からいま英米文学科が消えつつあります。
 繰り返しますが、コミュニケーションツールとして英語を学ぶことは端的に「よいこと」です。でも、「目標文化」を持たない外国語学習をいくらしても、それは学習者のアイデンティティーをより強固にすることはあっても、母語的なものの見方を揺るがされて、自己刷新に導かれるということはありません。
 今の英語学習者たちの学習を動機づけているのは、とりあえず試験で高いスコアをとること、偏差値の高い大学に入ること、高い年収と社会的地位を得ることです。それは100%「母語世界内部的」な現実に身を添わせることです。母語世界内部的なものの見方を強化するために外国語を学習するというのがどれほど非論理的な営みであるかに気づかない人たちが英語学習の制度設計をしている。その没論理性に僕は慄然とするのですが、ほとんどの人はそれに気づかないでいるようです。

――真の意味で「学ぶ」とはどういうことをいうのでしょうか。
内田 多くの人は、「学ぶ」というのは所有する知識や情報や技術の総量を増やすことだと思っていますが、それは違います。「学ぶ」とは自分自身を刷新してゆくことです。学んだことによって学ぶ前とは別人になることです。学ぶことによって語彙が変わり、感情の深みが変わり、表情も発声もふるまいもすべて変わることです。「コンテンツ(内容物)」が増加することではなく、「コンテナ(入れ物)」そのものの形状や性質が変わることです。
「呉下の阿蒙」という話があります。中国の三国時代の呉にいた呂蒙将軍は勇猛な武人でしたが学問がありませんでした。呉王がそれを惜しんだことに発奮して、呂蒙は学問に励みました。久しぶり会った同僚の魯粛は呂蒙の学識教養の深さに「かつての君とは別人のようだ」と驚きます。すると呂蒙は「士別れて三日、即ち更に刮目して相待すべし」と応じます。学ぶ人間は三日会わないともう別人になっているので、目を見開いて見なければならない、と。
 昔はこのたとえ話をよく学校の先生が語りました。学ぶとは別人になることだという考え方は1960年代くらいまではまだ生き残っていたようです。でも、今の日本の学校でこの話をする教師はまずいません。もう「学びを通じて別人になる」という考えは日本社会では共有されていない。人間は変わらないまま知識や情報が増え、技能や資格が身につく。そういう「学び」観が支配的です。

 別人になることへの強い抑圧の力は友人同士の間でも働いています。学校に入って、新しいクラスや部活で、新しい友人グループができると、一人ひとりに「キャラ設定」がなされます。与えられたキャラを忠実に演じている限り、グループ内には居場所が保証されます。でも、与えられたキャラから逸脱することには強い抑制が働く。
 思春期に子どもはどんどん変化します。身体つきも変わるし、声も変わるし、感情の分節も変わる。読む本も聴く音楽も観る映画も変わる。でも、キャラ変更は原則として許されません。グループの「和」を乱すから。だから、友だちに別人になりそうな予兆が見えると周りは「らしくないことをするなよ」「らしくないことを言うなよ」というかたちで変化を阻止しようとする。友だちの変化を否定的にとらえるのは、とても危険なことだし、不幸なことです。変化することは自然なことなんです。それは祝福してあげるべきことなんです。

――社会はどんどん変化する中で、どのように生きていけばいいのでしょうか。
内田 「夢を持て」「夢を語れ」と言われると高校生たちは暗い顔になるそうです。それはそこで「夢」という言葉で指示されているのが、単なる「人生設計」のことだからです。どの学校でどんな専門を学んで、どんな職業に就くか、それを早く決めろと急かされている。早く人生を決めて、決めたレールの上を走って、そこからは外れるなと言われてうれしがる子どもはいません。
 それに、「夢を持て」と言ったって、子どもたちはこの世にどのような学術分野があるか、どんな仕事があるかを知りません。世の中がどういうものかを知らない段階で、「この世の中で、どういう立ち位置を選ぶのか、はやく決めろ」と強制するのはほとんど虐待です。
 ですから、中学生高校生に「将来何になりたい?」というような質問を不用意にすべきではないと僕は思います。そこでうっかり口にした言葉に自分自身が呪縛されるということがあるからです。10代の頃になんか、将来のこtなんか決めなくていいんです。天職というのは、自分で決めるものではなくて、仕事の方から呼びかけてくるものですから、気長に待っていればいい。

――進路や将来就きたい職業について、どう考えていけばいいのでしょうか。
内田 これからの世界で、どんな職業が生き残り、どんな業界が消えるか、それは誰にもわかりません。「この専門を勉強すれば、一生食うに困らない」というような専門分野は残念ながら存在しません。ですから、「あまりやりたくないけれど、この職なら食えそうだから」というような理由で専門を選ぶべきではありません。「やりたくない仕事」の専門家に我慢してなってけれど、それでは「食えなかった」というのでは、救いがありません。
 なかなか「やりたい仕事」は決められないでしょうけれども、「やりたくない仕事」「これは無理」という仕事は高校生だってわかるはずです。とりあえずは、それを選択肢から外してゆけばいい。
 それに僕たちが仕事を選ぶときの基準は実は「業種」じゃないんです。それよりもオフィスの雰囲気とか、着ている服とか、同僚とのおしゃべりの話題とか、そういう具体的な日常の空気感で「できる仕事/できない仕事」を選別している。
 僕の妻は能楽師ですが、前に能楽師になった理由を聞いたら、「着物を着る職業だったらなんでもよかった」と教えてくれました。仲居さんでも舞妓さんでもよかったんだそうです。そういうものですよ。 
 僕は二十代で友人と翻訳会社を起業しましたが、正直言えば、業種は何でもよかったんです。定時になったら仕事を終えてみんなでコンサートに行ったり、麻雀やったり、日曜に多摩川の河原で野球やったり、バイクでツーリングに行くような会社を作りたかったというだけです。それが翻訳だったのは「たまたま」です。だから、そのあとその会社の業態はどんどん変わり、出版や広告までやりました。
 僕が大学の教師になったのも、ほとんど偶然です。大学院に進学したのは「モラトリアム」のためです。卒業しても就職する気なんかなかった。でも、ただの無職ではちょっと格好が悪いので、大学院にでも行こうかと思った。ところが院の入試には落ちて、大学を卒業してから院に受かるまでの二年間は無職でした。
 大学院に入ったときに、同時に起業したので、最初のうちは会社経営の方が面白くて、院の授業には全然出ないで、単位もとれないし、成績もひどかった。でも、修士論文を書く時期を迎えて、これくらいはちゃんとしたものを書こうと思って、会社を休んで、半年ほど家にこもって、ひたすら文献を読んで、論文を書くという時間を過ごしました。そしたら、その時間がほんとうに楽しかった。こうやってひたすら本を読んで、原稿用紙のます目を埋めてゆくことが職業になったら楽しいだろうなあと思って、その時に博士課程に進学しようと思うようになりました。
 さいわい、修士論文は先生たちからわりと高く評価されて、無事に博士課程に進み、その後は研究中心の生き方をするようにしていたら、さいわい三年目に助手に採用されて、「大学教員」というものになりました。それが31歳のときです。ふつうの学生が就活して定職に就くより10年遅れたことになります。でも、僕はぜんぜんこの「遠回り」を無駄だと思っていません。
 大学院浪人の時に翻訳をして生計を立てたことも、その縁で小学生からの親友である平川克実君と起業することになったことも、まったく無駄ではなかった。その間に結婚して、子どもができたり。多田宏先生という傑出した武道家に出会って、合気道という武道を始めて、稽古に明け暮れたことも、どれを欠いても、それからあとの僕の人生はまったく違ったものになっていたでしょう。どれも「ご縁」があったからだと思います。自分で選んだわけじゃない。どちらかというと「あちらからお声がけ頂いた」ような気がします。
「ご縁」というのは、そういうものです。あちらから「ちょっと手を貸してくれない?」と声をかけられる。僕の場合はこれまでの出来事はなんだか全部そうだったような気がします。その声を聞き逃さないこと。それがたいせつだと思います。