宮﨑駿『君たちはどう生きるか』を観て

2023-08-22 mardi

 私は宮崎駿の映画のかなり熱烈なファンである。これまでいくつかの宮崎駿作品について映画評を書いてきた。宮崎作品を観た後は、いつでも語りたいことが湧き上がってきて、語らずにはいられないのである。
 今回の『君たちはどう生きるか』についても、何かを語らずにはいられないことに変わりはないのだが、それはこれまでのように自分が観た映画について語ることを通じて「さらなる愉悦」を引き出すためではない。「これは一体どういう作品なのか」を何とか言葉にしてみないと、自分が何を観たのかがよくわからないからである。
 これまでの宮崎作品なら、物語は完結し、ラストで伏線は回収され、映画の「メッセージ」も別に解釈の手間をかけずにもすんなりと伝わってきた。映画を楽しむためには、それで十分だった。そして、映画をたっぷり楽しんだ上で、「果たして物語はあれで完結しているのか?」「伏線はほんとうに回収されているのか?」「あんな『わかりやすい』メッセージで納得してよいのか?」という深読みが観客には委ねられた。
 別に深読みなんかしなくてもいいのである。素直に観ていれば、それだけでお腹いっぱいになるほどに楽しいのである。でも、さらなる愉悦を求めて、「もっと何か裏があるんじゃないのか」と厨房をのぞき込みたくなる。そうすれば映画を二度楽しめる。
 しかし、『君たちはどう生きるか』はそうではない。一度観ただけでは、何を観たのか、どういう話だったのかがよくわからない。果たしてこの作品はいったい「何が言いたいのか?」ということを観客は自分に問わなくてはならない。宮崎駿はこれまでそのような「面倒な仕事」を観客に求めたことがない。ややこしい観客が勝手に深読みしたり、裏読みしたりして、わいわい好き勝手をしていただけで、ふつうの素直な観客は「ああ、面白かった」で大満足して終わったのである。でも、今回ばかりはそうもゆかない。
 
 物語のあらすじを大雑把に言うと、「少年が母を探しに黄泉の国に行って、さまざまな〈母の代理表象〉たちと出会い、彼女らと共に黄泉の国を冒険した後、母を断念して、現実世界に帰還する」ということになる。
 少年が母を探して「黄泉の国」を旅するという物語はたぶん世界中の神話にある。それは世界中のすべての集団に少年のための「通過儀礼」があるからである。
 子どもたちはそれまで心穏やかに暮らしていた「母親との一体化した楽園状態」からある日暴力的に引き剥がされて、タフでワイルドな「リアル・ワールド」に送り出される。その経験は子どもたちに深い痛みと悲しみをもたらす。その傷は癒されなければならない。その癒しのための装置が「母との決別/幼児期との決別」の物語である。
 この苦痛はあなた一人のものではない。世界中の子どもたちもまたあなたと同じようにこの苦痛を味わったのだ。苦しんでいるのはあなた一人ではない。その「共苦」の思いが毒性の強い苦痛を少しだけ緩和させてくれる。
 多くの物語では、決別すべき自分の幼児期は「アルターエゴ」として表象される。純粋で、脆弱で、繊細で、道徳心が欠如し、利己的で、魅力的な「友人」がそれである。その「友人」と「僕」は胸ときめくような一夏の冒険を共にする。けれども、夏が終わると、「友人」は何も言わずに「僕」から立ち去り、「僕」は深い欠落感を抱えたまま一人で生きることを決意する。イノセントで甘えん坊のアルターエゴとの別離を通じて少年はタフでクールな「大人」になる。
 アラン・フルニエの『ル・グラン・モーヌ』も、スコット・フィッツジェラルドの『ザ・グレート・ギャツビイ』も、レイモンド・チャンドラーの『ザ・ロング・グッドバイ』も村上春樹の『羊をめぐる冒険』もどれも「そういう話」である。少年時代との決別はふつうはそういう説話的定型をとる。
 ふつうはそういう定型をとる。だが、『君たちはどう生きるか』はそれとは違っていた。たしかに、これも少年が母との離別を受け入れて大人になる物語ではある。けれども、それは幼児的アルターエゴとの別れの物語ではなく、母親との別れの物語という直接的なかたちをとる。
 少年は「死んだ母親を探しに冥界へ下る」。少年のアルターエゴはどこにも登場しない。出てくるのは「母親の代理表象」たちである(継母ナツコ、母の少年時代であるヒミ、少年の守護者であるキリコさん)。彼女たちはそれぞれに少年が探し求める母の「断片」である。断片であるから、どれも少年が探している「母」そのものではない。
 その三人の「断片的な母」を足したら、「母」の手触りはもう少し確かなものになるのかも知れない。いや、たぶん、それでも少年の手元には何も残らなかったと思う。映画の最後の眞人の非情緒的なたたずまいは「母との再会」がついに果たせなかったことを暗示している。
 これまで人々が少年期との決別をストレートな「母との別れ」の物語ではなく、一ひねりした「幼児的なアルターエゴとの別れ」の物語に書き換えてきたのは「母との別れ」は直接過ぎて、つら過ぎて、とても物語にならなかったからである。「母との別れ」を「幼い自分自身との別れ」に書き換えることで、同じ経験を少しだけ耐えやすいものにしたのである。
 それに「幼児期のイノセントで壊れやすい自分との別れ」という説話定型を採用すれば、「大人」になってしまった後でも、過ぎ去った時代を回想したときに一瞬だけ「無垢な少年」にもどることだってできる。現に、『紅の豚』のポルコも『風立ちぬ』の二郎も、回顧的になると、少年の姿に戻っていた。
 でも、宮崎駿はそういう「出来合いの説話原形」を棄てて、ストレートで、救いのない「母探し」と「母との出会いの失敗」の物語を生涯最後の作品の主題に選んだ。たぶんそれが自分にしか創ることのできない物語だと思ったからだろう。「そういう話はたぶんうまくゆかない」ということが本人にも経験的にわかっていて、たぶん周囲もそう言って制止したと思う。でも、世の中には「やってみなけりゃわからない」ということはある。宮崎駿は確実な成功を狙う人ではなく、「やってみなきゃわからないこと」をやり続けてきた。だから、天才なのだ。
 
 思えば「母探しの物語」は宮崎駿にとっては、高畑勲と組んだテレビアニメ『母をたずねて三千里』から半世紀にわたって続いてきた生涯の主題であった。
 そして、改めて思い返してみると、「少女たちの母親」は主題的な存在になったことがない。『風の谷のナウシカ』のナウシカにも『カリオストロの城』のクラリスにも『天空の城ラピュタ』のシータにも母はいない。『となりのトトロ』のサツキとメイの母はずっと入院中である。『魔女の宅急便』と『千と千尋の神隠し』ではキキの母も千尋の母も、物語が始まると同時に姿を消す。『もののけ姫』の母親は山犬である。
 少年の場合はもっと徹底している。印象的な「少年の母親」を私は宮崎アニメでは見た記憶がない。『もののけ姫』のアシタカにも『天空の城ラピュタ』のパズーにも『風の谷のナウシカ』のアスベルにも『千と千尋の神隠し』のハクにも母親はいない。もちろん、どこかに母がいるからこそ、かれらは存在することになったのだが、母の影は彼らにはない。

 母親はいなけれど、「母の代理表象」はいる。『天空の城ラピュタ』のドーラ、『となりのトトロ』のカンタのおばあちゃん、『千と千尋の神隠し』の銭婆、『魔女の宅急便』のパン屋のおソノさんやパイを作る老婦人が宮崎アニメでは「母親代わり」として厚みのある存在感を発揮する。彼女たちは、子どもたちを受け入れ、子どもたちの成熟を支援する。でも、彼女たちは「母親代わり」であって、実母ではない。

 上に書いた通り、『君たちはどう生きるか』では、母は三つのキャラクターに分裂している。なぜ母親を三人に分割しなければいけなかったのか、その理由が私にはよくわからない。
 物語的に考えると、眞人の旅の同伴者はヒミ一人であった方がすっきりしている。それなら、「『母になる以前の母』と手を携えて、『母になったあとの母』を探しているうちに、旅の同伴者である少女に眞人が恋心を抱く」という話になる(かも知れない。たぶん、なる)。
 そのような「決して成就しない恋の物語」なら、母の死による決定的離別を癒すための物語としてうまく機能するかも知れない。前例がないから、成功するかどうかわからないけれども、やってみなければわからない。
 でも、残念ながら、少女ヒミの出番は少なすぎて、眞人には彼女に恋するほどの暇がなかった。キリコさんはドーラやおソノさんに通じる人物だけれども、彼女もまた少年を抱きしめて、少年の存在を全肯定し、少年の未来を祝福するところまではゆかない。継母ナツコは「母親のふり」はするけれども、少年をまるごと受け入れるという母親の本来の責務はきっぱりと拒絶する。

 本作は事前の宣伝をしなかったし、物語が難解であるから、ネット上では公開後にさまざまな解釈がなされている。もちろん、そうやって「ああでもないこうでもない」と作品について解釈が出されるのは、端的によいことである。そして、その場合にも、作者自身が「私はこういうつもりで創った」という自作自註は必ずしも決定的なものではない。作者の解釈が一般の観客の解釈に優越することはない。なぜなら、本当の天才は自分でも思ってもいないことを作品内で実現してしまうからだ。それはしばしば物語の筋とはかかわりのない細部の描き込みであったり、登場人物の名前の音韻であったり、後ろを通り過ぎるものの造形であったりする。意識の最も深い層にあるものはしばしば表層に露出する。それは作家本人の統御を離れて画面の上に華やかに展開するのである。そして、不思議なことに、ぼんやりした観客ほどそれを見逃さない。
 アニメの解釈に文学史的知識をひけらかすのは無作法だということはわかっているけれど、ジャン・ポーランは『タルブの花』にこう書いていた。

「ある種の光は、それをぼんやり見ている人には感知できるが、凝視する人には見えない。」

 これは文学作品についての話だけれど、アニメでも事情は変わらないと思う。「ぼんやり見ている人」にこそよく見えるものがこの世にはある。そして、宮崎アニメが世界を席巻したのは「ぼんやり見ている人」こそ宮崎アニメの最大の愉悦者であるという逆説が成立していたからである。私のようにあれこれ七面倒くさい解釈をする人間よりも、何の邪気もない子どもの方が宮崎アニメを深く享受できるのである。
 でも、『君たちはどう生きるか』は「ぼんやり見ている人」には自分が何を観たのかがよくわからないのではないかと思う。この作品が何を「発光」しているのかを知るために私たちは「凝視」を求められる。けれども、それは果たして宮崎駿自身が望んだことなのだろうか。
 宮崎駿はこれまでもはっきりと自分のアニメは日本の子どもたちを想定観客にして作られたものだと言い切ってきた。大人が解釈をしないと物語の意味がわからないようなものを宮崎駿は作る気がなかったはずである。子どもでも楽しめて、エンドマークが出たときに小学生でも「ああ、面白かった」と笑いはじけるような作品をめざしてきたはずである。その点から言うと、『風立ちぬ』も本作ももう「子ども向け」とは言い難い。

 本作が「子ども向け」でないと思える理由は、難解というだけではない。実はこれまでの宮崎アニメに必ずあったものが二つ足りない。それは「かわいいトリックスター」と「空飛ぶ少女」である。
 宮崎作品には必ず「かわいいトリックスター」が出てくる。
 トリックスターというのは人間の世界とこの世ならざる世界を架橋する存在である。だから、神話学的には「気味の悪いもの」である。二つの世界の属性を一体のうちに有するハイブリッド生物だから気味が悪い造形であって当然である。でも、これまで宮崎駿はトリックスターを「かわいく」造形してきた。そのせいで、主人公たちが現実界と異界の境界線を自由に往き来することに観客は違和感を覚えずに済んだ。
 現実世界と「この世ならざる世界」の境界線の往き来をファンタスティックで浮遊感のある映像体験に仕立てたのは、何よりもこの「かわいい造形」の手柄であったと私は思う。例えばトトロがあのころころふにゃふにゃしたものではなくて、もっとごつごつしたり、冷やりとした手触りのものだったら、あの映画はもっと「気味の悪いもの」になっていたはずである。『魔女の宅急便』の黒猫のジジも、『もののけ姫』のコダマも、かわいかった。
 でも、『君たちはどう生きるか』には「かわいい成分」が足りない。見ているだけでうれしくなってしまうほどかわいい生物はここには出てこない。本作にはコダマに似た白い「ワラワラ」が出てくるけれど、コダマほどかわいくない。ペリカンも、インコも別に「かわいい」という類のものではない。この作品におけるトリックスターはアオサギだけれど、これの本態は醜怪な容貌の中年男である。正邪、善悪の区切りになじまないという点では、トリックスター性はしっかり備えているのだけれど、造形的にかわいくないので、アオサギが画面に出てくるのを心待ちにしていたという観客はあまりいなかったと思う。

 本作でもうひとつ登場しなかったのは「空飛ぶ少女」である。宮崎アニメはクライマックスシーンで少女が空を飛ぶ。それが今回はなかった。飛ぶのは少女だけではない。「飛ぶはずがないもの」であれば、何でもよい。
 宮崎アニメでは「絶対飛ぶはずのないはずのもの」が飛ぶ。「飛ぶはずがないもの」が物理法則に逆らってふわりと浮き上がり、加速して、やがて雲の間を気持ちよく滑空する。「飛ぶはずがないもの」がまるでほんとうに宙に浮いているかのように「見せる」ことに宮崎駿はその作画技術を惜しみなく投じてきた。
 ナウシカのメーヴェもキキの箒も峰不二子のグライダーもポルコの飛行艇も二郎少年の手作り飛行機も、どれも「飛ぶはずがない」状況で飛ぼうとする。そのときに観客たちは「飛べ、飛べ」と手を握り締めて祈る。そして、この祈りは必ず聴き届けられる。ふわりと「浮くはずのないもの」が浮くとき、観客は自分たちの祈りが実現したと感じる。映画の中の出来事が他人ごとではなく、自分たちの祈りに直結していると感じる。そうやって観客は映画の中に、その構成員のひとりとして巻き込まれる。気づかぬうちに映画の中に没入している。その観客を映画の世界の中に巻き込む技術において宮崎駿は天才であった。
 でも、残念がら、そのようなコミットメントの感覚を『君たちはどう生きるか』では観客は得ることができなかった。眞人は遂に空を飛ぶことがないからだ。映画の終わり間近に階段が崩落する場面があった。これまでの宮崎アニメだったら、主人公は決して墜落しなかっただろう。ルパン三世もパズーも崩れ落ちる階段をほいほいと駆け上った。アシタカは岩を飛んでシシ神の身体から流れ出る瘴気を軽々とに避けた。でも、眞人は階段といっしょに墜落して、石材の山に埋もれてしまった。
 主人公が「飛ばない」というのは、観客の祈りが届かないということである。『魔女の宅急便』でキキが時計台にしがみつくトンボ君を救うために、近くにいたおじさんの箒を借りて、「飛べ!」とつぶやくとき、映画を見ていた観客のほとんどが主人公とともに「飛べ!」とつぶやいたはずである。
 これまでの宮﨑アニメでは、観客が強く念じたことは映画内では必ず実現した。でも、今回は祈りが届かなかった。むろんそんなのは作品の質とは関係のないレベルでのことである。けれども、観客が映画の中に想像的な仕方で「参加する」という愉悦を得ることができなかったのは事実である。

 宮崎駿は「母探しとその挫折」という、おそらく彼にとっては強い必然性があるテーマにまっすぐに向き合った。『母をたずねて三千里』以来半世紀にわたってこの主題を宮崎駿は「棚上げ」してきた。そして、今回封印を解いて、ストレートな「母探し」の物語を作った。その必然性については「個人的なこと」だから、余人が問うことではないと思う。ただ、「こうすれば観客は喜ぶ」ということを職人としての宮崎駿は熟知していたにもかかわらず今回はそれを自ら封印した。この封印は意識的なものであることは間違いないと思う。どうして、「こうすれば観客は喜ぶ」仕掛けをあえて封印したのか、それについては宮崎駿自身の言葉を私は聴きたいと思う。そして、それを読んで「ああ、なるほど、そうだったのか! こんな皮相な解釈をして、オレはあさはかだった・・・」と髪をかきむしるという経験をぜひしたい。ほんとうに。