「人口減少社会の病弊」

2023-06-26 lundi

あるマイナーな媒体から上のような標題で寄稿依頼された。一般の方のお目にとまる機会がなさそうなので、ここに再録しておく。でも、書いているのは「いつもの話」である。

 というタイトルを編集部からご依頼された。論じて欲しいトピックとして「子どもを産み育てる社会的環境がなぜ整備されないのか」、「このままではどのような将来が想定されるのか」、「解決策はあるのか」が示された。
 そういう寄稿依頼を受けておいてほんとうに申し訳ないのだけれど、実は「人口減」を「病」というふうに考えること自体に私は反対である。「反対」というのはちょっと言い過ぎかも知れないので「懐疑的」くらいにしておく。「人口減」は果たして「病」なのであろうか? 
 若い方はご存じないと思うけれど、「人口問題」というのは、少し前までは「人口爆発」のことであった。1975年にローマクラブが「成長の限界」というレポートを出したことがあった。このまま人口増加が続けば、100年以内に人類が及ぼす環境負荷によって地球はそのキャリング・キャパシティの限界に達すると警鐘を鳴らしたのである。
 人口を減らすことが人類の喫緊の課題であるという話を私はその時に知った。そうなのかと思った。たしかにその頃はどこに行っても人が多過ぎた。高速道路の渋滞に出くわすたびに、「もっと日本の人口が減ればいいのに」と心から思った。
 その後、大学教員になってしばらくしたところで教員研修会が開かれた。そこで「18歳人口がこれから急減するので、本学もそれに備えなければならない」と告げられた。ちょっと待って欲しい。「人口が多過ぎてたいへん」という話をずっと聴かされていたのが、いきなり「人口が減り過ぎてたいへんなことになる」と言われても、そんなに急に頭は切り替えられない。
 それに、納得のゆかない話である。ある年の日本の18歳人口がどれほどであるかは18年前にわかっていたはずである。人口動態というのは統計の数字のうちで最も信頼性の高いものの一つである。だったら、「18歳人口がこれから減るので、それに備えなければならない」という話をなぜ18年前に議論し始めなかったのか。
 ところが、調べてみると、どこの大学も18年前には「臨時定員増」で、学生定員を増やし、教職員数を増やし、財政規模を大きくしていたのである。たしかにその時点での18歳人口は増えていたのであるから、それに適切に対処したのかも知れない。けれども、そうしたせいで「18歳人口が減少し始めたら、たいへん困ったことになる体制」をこつこつと作り上げていたのである。いったい、当時の大学経営者たちは何を考えていたのであろうか。たぶん「18歳人口が減って困り始めるのは私が退職した後だし、とりあえず今は『稼げるうちに稼いでおく』ということでいいんじゃないの」というくらいの考えだったのだろう。私だって、その時代に大学にいたら同じように考えたかも知れない。「洪水よ我があとに来たれ」である。
 その時に私が学んだのは「人々は人口問題についてあまりまじめに考えないらしい」ということだった。なにしろ「人口問題」の定義自体が「人口増」から「人口減」に変更されたが、それについて誰からも、何の説明もなかったからである。
 それ以後、私は人口問題について、「周知のとおり」という口ぶりで話を始める人のことは信用しない。だから、「人口減」をいきなり「病弊」として論じるということにも抵抗を覚えるのである。
 そもそも今も人類規模では人口問題は人口減ではなく人口増のことなのである。人類の人口は現在80億。これからもアフリカを中心に増え続け、21世紀末の地球上の人口は109億と予測されている。この予測が正しければ、今から80年、グローバルサウスは引き続き人口爆発による環境汚染や飢餓や医療危機の問題に直面し続けることになる。つまり、人口問題が専一的に「人口減」を意味するのは、今のところは一部先進国だけなのである。
 私たちがこの事実から知ることができるのは、人口はつねに多過ぎるか少な過ぎるかどちらかであって、「これが適正」ということがないということである。人口については適正な数値が存在しない。それが人口問題を語る上での前提である。
 日本の人口として、いったい何人が適正なのか、私が知る限り、その数字を示してくれた人はいないし、ある数字が国民的合意を得たこともない。だが、日本列島の「適正な人口数」を知らないままに、人口について「多過ぎる」とか「少な過ぎる」とか論じることは果たして可能なのだろうか?

 人口論の基本文献として私たちが利用できるのはマルサスの『人口論』である。マルサスの主張はわかりやすい。「適正な人口数とは、食糧の備給が追いつく人口数である」というものである。食糧生産が人口増に追いつく限り、人口はどれだけ増えても構わないというある意味では過激な論である。
 マルサスの人口論は「人間は食べないと生きてゆけない」と「人間には性欲がある」という二つの前提の上に立っている。性欲に駆られたせいで人口は等比級数的に増加するが、食糧は等差級数的にしか増加しない。だから、ある時点で人口増に食糧生産が追いつかなくなり、飢餓が人口増を抑制する、というのがマルサスの考えである。
 これは自然観察に基づいている。ある環境内に棲息できる動植物の個体数は決まっている。環境の扶養能力を超える数が生まれた場合には、空間と養分の不足によって淘汰され、個体数は調整される。その通りである。
 ただし、人間の場合は、もう少しリファインされていて、餓死して淘汰される前で人口抑制がかかる。困窮の時期においては、「結婚することへのためらい、家族を養うことのむずかしさがかなり高まるので、人口の増加はストップする。」「自分の社会的地位が下がるのではないか」、子どもたちが成長しても「自立もできなくなり、他人の施しにすがらざるをえないまで落ちぶれるのではないか」といった心配事があると、文明国の理性的な若者たちは「自然の衝動に屈服するまいと考え」て結婚しなくなる。マルサスはそう予測した。これは現代の日本の人口減の実相をみごとに道破している。
 それに、男性の性欲を生殖に結びつけずに処理する装置(「不道徳な習慣」)が文明国には完備されていることも人口抑制に効果的であるともマルサスは指摘していた。炯眼の人である。
 マルサスの人口論は今の人口問題についても大筋で妥当すると思う(人口は等比級数的に増えるという予測は間違っていたし、人間の環境破壊がここまでひどいとは考えていなかったが)。
 人類全体の人口は21世紀末に100億超でピークアウトして、それから減少する。もっと早く減り始めるという予測もある。その後どこまで減少するかは分からない。19世紀末の世界人口が14億だから、そのあたりで環境の扶養力とバランスがとれて人類は定常状態に入るのかも知れない。先のことはわからない。だが、さしあたり先進国は(アメリカを除いて)どこも急激な人口減に直面する。その趨勢のトップランナーは日本である。
 日本の人口は最近の統計では2070年に8700万人にまで減ることが予測されている。現在が1億2600万人であるから、今から年83万人ずつ減る計算である。83万人というと山梨県や佐賀県の人口である。それが毎年ひとつずつ消える。
 2100年の日本人口について内閣府の予測は、中位推計で6,400万人。これはかなり楽観的な数値である。中位推計が4700万人という予測もある。いずれにせよ、21世紀末に日本の人口は今の半分ほどになることは間違いない。日露戦争の頃が「生霊五千万」と言われたから、二百年かかって明治40年頃の人口に戻る勘定である。
 
 人口減に対して、私たちが採り得るシナリオは原理的には二つしかない。一つは資源の「都市集中」、一つは資源の「地方分散」である。日本人は過去において「地方分散」の成功経験は持っているが、「都市集中」についてはそもそも経験がない。
 私は保守的な人間なので、「過去に成功体験があった場合はその事例を参照する」ことにしている。エドマンド・バークが言うように、「うまくゆく保証のない新しいシステムを導入・構築する」ことに私は警戒的である。
 いずれ日本は人口5000万の国になる。その場合にどういう仕組みが適切であるかを考える時には、「うまくゆく保証のない」都市集中シナリオよりは、実際に日本の人口が5000万人でかつ安定的に統治されていた明治40年代の「地方分散」シナリオを参照するのがことの筋目であろう。違うだろうか。
 明治維新まで日本列島の人口は約3000万人。それが276の藩に分かれていた。それぞれの藩には行政官がおり、軍人がおり、商人がおり、武芸指南役や能楽師や茶の宗匠がおり、固有の方言があり、食文化があり、伝統芸能や宗教儀礼があった。サイズは違うけれども、藩は単立の政治単位であり、原則的には自給自足の経済単位であり、固有の文化共同体であった。これが「地方分散」の基本的なアイディアである。
 明治維新のあと、藩は解体されて、府県制に移行したが、明治政府は東京への資源集中をはかると同時に資源の地方分散にも力を注いだ。
 その一つの指標として教育資源の地方分散を見ることができる。
 明治40年代には東京帝大、京都帝大、東北帝大、九州帝大の四つの高等教育機関ができていた(京城、台北を含む9帝大が整備されるのは1939年)。旧制高校の設立はさらに早く、東京の第一高等学校が明治19年、以後明治41年までに仙台、京都、金沢、熊本、岡山、鹿児島、名古屋に八つのナンバースクールが設立された。それ以後の旧制高校(都市名を採って「ネームスクール」と呼ばれる)は松江、弘前、水戸などの城下町に始まり旅順まで文字通り「全国津々浦々」に19校が展開した。
 もちろん教育資源の地方分散だけから明治政府の国策全体を知ることはできない。交通、通信、上下水道、電力をはじめとする他の社会的インフラも全国に広く整備されたが、ここには強く政治的配慮が関与した。戊辰戦争の「賊軍」の地方がこの点ではあからさまに冷遇されたことはご案内の通りである。
 それでも、全国津々浦々にできるだけ等しく資源を分配するということが明治から昭和にかけて、日本政府の基本方針であり、国民の悲願でもあったことは事実である。少なくとも日本の歴史を顧みて、都市部だけが栄え、地方は衰退することを積極的に「めざす」というような政策が国民的な支持を得て、実施された事例を私は知らない。
 だとすれば、人口5000万人日本の社会モデルを構想するなら、「明治40年の日本」を基本にして、それをどうモディファイして、「2100年仕様」にするのかを議論するのが最も合理的であると私は思う。
 しかし、現実はそうなっていない。
 人口減局面において選択すべきシナリオが「資源の都市への集中」であるということについてはすでに政官財においては既定方針となっている。
 日本政府は東京を中心とする首都圏だけに資源を集中し、それ以外の土地は人口が減るに任せ、最終的には無住地化するというシナリオをすでに採択しており、実施している。ただ、それを国民の同意を得る手間を省いて、黙って実施しているのである。「地方を見捨てる」ということは既定方針だが、それを公言することは差し控えている。当たり前だけれど、そんな政策を公約に掲げたら自民党は地方での議席を失って、政権与党の座から転げ落ちることが確実だからである。だから、粛々と「都市集中」「地方消滅」シナリオを実現しながら、それについては何も言わない。そもそも「二つのシナリオのどちらを採択するかという問題がある」という事実そのものを政府は隠蔽している。そのことが国民的な議論になることそのものを回避しようとしている。そして、ある日、地方の過疎化・無住地化が後戻り不可能のところまで進行した時点で、「都市集中シナリオ以外に日本の生き延びる道はありません」と重々しく宣言する。そういう段取りである。見てきたようなことを言うなと言われそうだが、公開資料からでもこれくらいのことは誰でも推理できる。
 人口減問題は国民的な議論を通じて対策を決定すべき事案であるけれども、現に国民的な議論は行われず、国民的な合意形成もめざされていない。そのような議論がなされ、同意形成が必要だということさえ政府は決して口にしない。
 ただ勘違いして欲しくないが、私は別に日本政府や財界やメディアの人々が邪悪な意図を以て、国民の目の届かないところで「陰謀」を企んでいると言っているのではない。彼らだって何も考えていないのである。ただぼんやりと「人口減に対処するには資源の都市集中しかない」と思っているだけなのである。誰一人「地方分散シナリオ」について語らないので、その可能性について考える必要を感じないでいるのである。思考停止しているという点では政治家も国民も変わりはない。
 というのは、「人口減には都市集中で対処する」というのは何らかの政治的立場からする要請ではなくて、資本主義からの要請だからである。

 資本主義はいついかなる場合でも経済成長を志向する。それによって地球環境が劣化しようと、人類が棲息できなくなろうと、経済成長を志向する。SDGsとかWoke Capitalism とかが出てきて「あの・・・人類が滅びると、資本主義も滅びてしまうんですけど」とおずおず申し立てているが、もちろん資本主義はそんなことを意に介さない。資本主義はただのシステムであって、生物ではないからである。資本主義には生存戦略というものがない。ある日地球環境が破壊され、人類が過度の収奪によって滅びて、資本主義も終わるのだが、「それでは資本主義の立場というものがないでしょう」と言っても無駄なのである。先方は生き物じゃないので、自己保存の本能もないし、もちろん「立場」などというものもない。資本主義は「大洪水」が来るまでひたすら暴走し続ける。その暴走の余沢に浴して私腹を肥やそうとする「せこい」人間たちを巻き込んで暴走し続ける。
 カール・マルクスは『資本論』で資本主義が起動したのは「囲い込み」からだという仮説を立てた。囲い込みというのは、19世紀英国で、農地を牧羊地に転換し、自営農たちを土地から引き剥がして、都市に追いやり、労働力以外に売るものを持たない無産者に転落させたプロセスのことである。人為的に「人口過密地」と「人口過疎地」を作り出すことである。
 過疎化した土地には生産性の高い事業(紡績業が基幹産業だった19世紀英国においては牧羊)を展開し、土地を失った人々は都市に集めて、求人に対して求職者が圧倒的に多い環境を作り出すことで、雇用条件を引き下げた(「お前の替えなんかいくらでもいるのだ」というのが資本家が雇用条件を切り下げるときの殺し文句であることは昔も今も変わらない)。
 以後、資本主義はこの成功体験を忘れたことがない。「人口が過密で、求職者が求人を上回り、劣悪な雇用条件でも労働する都市」と「人口が過疎で、生産性の高い事業が展開できる地方」への二極化は資本主義にとって最高の環境なのである。
 だから、資本主義が今人口減による市場の縮減、労働者の減少という否定的環境を生き延びるために「21世紀の囲い込み」をめざすのは当然なのである。そして、資本主義以外の経済システムを構想できない人たちが政策決定をしている以上、「都市集中」シナリオが選択されるのは当然のことなのである。

 これは妄想ではなく、現実に起きていることである。韓国では、日本よりも早いペースで人口減と高齢化が進んでいる。合計特殊出生率は2022年に0.78。少子化が叫ばれる日本でも1.26であるから韓国の少子化の速度の異常さが知れる。
 その韓国では人口減と都市への人口集中が同時に起きている。すでに人口の45・5%がソウルとその近郊に集中し、その数は増え続けている。韓国第二の都市の釜山はでは若者の流出が顕著で、すでに市内15大学のうち14校が定員割れをしている。ソウル以外の地方では大学の廃校がもう始まっている。
 昨年、韓国で講演旅行をしたときに「地方の人口減少」にどう対処したらよいかという演題を与えられた。地方の過疎化・無住地化はきわめてシリアスな問題なのだけれど、韓国内では「ソウル一極集中」に対抗する有効な言説が存在しないらしい(あれば外国から人を呼ぶまい)。
 韓国を見ればわかるように、人口減局面で資本主義は必ず都市一極集中を選択する。私はそれを「シンガポール化」というふうに呼んでいる。都市一極集中そのものは資本主義経済システムの要請であるけれども、国土の大半を無住地にして、「山河」を破壊し、国民に帰るべき田園がない未来を押し付けるということになると、政治システムの改変も連動せずにはおかないからである。
 存じの方はあまりいないかも知れないが、シンガポールの「唯一最高の国家目標」は「経済発展」である。これが国是なのである。だから、すべての政策は「経済発展」に資するか否かを基準に適否が判定される。
 シンガポールは一党独裁の国である。国会はあるが、人民行動党が1968年から81年までは全議席を占有しており、81年にはじめて野党が1議席を得た。2011年の総選挙で野党が6議席取った時に、「歴史的敗北」の責任と取ってリー・クアンユーは政界から引退した。労働組合は事実上活動存在しない(政府公認の組合のみスト権をもち、全労働者の賃金は政府が決定する)。大学入学希望者は政府から「危険思想の持ち主でない」という証明書の交付を受けなければならないので、むろん学生運動も存在しない。「国内治安法」があって逮捕令状なしに逮捕し、ほぼ無期限に拘留することができるので、政府批判勢力は組織的に排除される。野党候補者を当選させた選挙区に対しては徴税面や公共投資で「罰」が加えられる。新聞テレビラジオなどメディアはほぼすべてが政府系持ち株会社の支配下にある。リー一族が政治権力も国富も独占的に所有しているという点では北朝鮮の「金王朝」と似ている。そして、地図を見ればわかるように、シンガポールには「地方」はない。都市しかない。それでも経済活動はきわめて効率的である。
 現在の自民党がめざしている政治改革はシンガポールの政体を模範にしている。反政府的な野党勢力に国会議席を与えず、労働運動を抱え込み、メディアを支配下に置き、「世襲貴族」たちが権力の座を占有して、政権との親疎がそのままキャリア形成に直結するネポティズム政治である。この10年の自民党政治はまさに「シンガポール化」と呼ぶにふさわしいであろう。
 シンガポールは国民監視システムをパッケージで中国から輸入している。中国政府の発明になる「社会的信用システム」は政権に批判的な市民の信用スコアを下げて、海外旅行を禁止したり、列車やホテルの予約がとれないようにして、行動を制限する精密な仕組みである。
この国民監視システムを自民党は日本にも導入したいと思っているのだが、さすがに中国からじかに買うわけにはゆかず、しかたなく自前で整備しようとしたのがあの不出来なマイナンバーカードシステムである。めざしているところは中国やシンガポールと変わらない。
 人口減社会の「病弊」があるとすれば、それは人々がうるさく言い立てるように財源がないせいで、年金制度や社会保障が立ち行かなくなるというような話ではなく、日本の国のかたちが劇的に変わりつつあるにもかかわらず、「人口5000万人になった日本社会」のあるべきかたちについて議論することそれ自体が制度的に抑圧されているという病的な現実のうちにある。
 人口減社会の病弊とは、人口減社会について、国民全体が(政官財の指導者も、国民も)一様に思考停止に陥っているという事実のことであり、それ以外にはない。