テロリズムについて

2023-06-23 vendredi

『月刊日本』6月号で岸田首相襲撃事件について「政治的テロリズム」をめぐるインタビューを受けた。それを採録しておく。

― 安倍元首相の銃撃事件に続き、岸田首相襲撃事件が起きました。内田さんは今回の事件をどう受け止めていますか。

内田 今回の事件には安倍元首相の銃撃事件ほど驚きは感じませんでした。さいわい死人や負傷者が出なかったこともありますが、何より襲撃犯の動機や行動の意味が分からなかったからです。岸田首相を狙うことで何をしたかったのか、それが分からない。
 それに、私はこの二つの事件の襲撃犯を「テロリスト」と呼ぶことは適切ではないと思います。いずれも政治的テロリズムの条件を満たしていないように思うからです。
 テロリストにとって何より重要なのは自分の行動の歴史的意味を明らかにすることです。それ以外の手段では実現困難な政治的主張のために命がけの行動をするのがテロです。第三者が出てきて、「彼はどうしてこんな行為に向かったのか」についてあれこれ解釈する可能性を残すようなことをテロリストはしません。
 大久保利通を暗殺した石川県士族の島田一郎はその斬奸状に「有司専制の弊害を改め、速かに民会を興し」とテロの目的を明らかにし、斬るべき「姦魁」として大久保の他に木戸孝允、岩倉具視の名前を挙げていました。大隈重信に爆弾を投じた玄洋社の来島恒喜は大隈重信外相の進める「屈辱条約」締結反対運動の先鋒であり、玄洋社の看板を背負ってテロ行為を行いました。彼らの行動の意味については余人の解釈の入る余地はありません。
 それにテロリストは本来生き延びることを考えいない。島田は自首して斬首され、来島はその場で自刎しました。「一人一殺」を掲げた血盟団のテロリストたちも、テロの後その場で自裁するつもりでいた。人を殺す以上は、自分の命も差し出す。フランスの作家アルベール・カミュはナチスドイツ占領下の抵抗運動の中で書かれた『ドイツ人の友への手紙』で、レジスタンスのテロを倫理的に肯定するためには、自分の命を差し出すことを誓言しなければならないと書いていました。
 来島のテロで大隈重信は片足を失う重傷を負いましたが、来島がおのれの政治的信条に殉じたことを高く評価し、「いやしくも外務大臣である我が輩に爆裂弾を食わせて世論を覆そうとした勇気は、蛮勇であろうと何であろうと感心する」と賞賛し、来島の法要に毎年代理人を送ったそうです。
 自分の行為の政治的意味を誤解の余地なく明らかにして行為に臨むという政治的な誠実さ、相手の命を奪う代わりに自分の命を差し出すという倫理的な緊張、この二つが「政治的テロリズム」成立の条件だと私は思います。いずれかを欠いている場合、それが政治家を標的にしたものであっても、犯人を「テロリスト」と呼ぶべきではない。ただの「暴漢」です。「テロリスト」という言葉を軽々しく用いるべきではありません。
 襲撃犯たちは、いずれもすぐに取り押さえられたので、その場で自決することができなかったわけですが、「斬奸状」を書く時間的余裕はあったはずです。なぜこの行為が必要だったのかを世に訴える手立てはあったはずです。それを怠ったので、生い立ちや家族関係、本人のものとされる匿名のツイートなどの状況証拠を積み重ねて、第三者に動機を推測させるということになってしまった。
 他人に自分の行動の動機の解釈を委ねられるということが私には理解できません。自分の行為を自分の言葉で説明できなかったのは、襲撃犯たち自身自分がなぜこんな行動を取るに至ったのか、その理路が実は分かっていなかったからだと思います。暴力をふるおうと思ったが、その意味を自分では言語化できない。だから、まず行動をしておいて、第三者に自分に代わって説明してもらう。これはあまりに幼く、無責任な態度だと思います。ただ暴力衝動に身を委ねたに過ぎない。

― 一連の襲撃事件は「民主主義の破壊行為」「民主主義を揺るがす暴挙」などと批判されています。しかし、これらは自民党政権を批判する際に使われる言葉でもあります。

内田 その批判は原因と結果を取り違えていると思います。テロが起きると民主主義が壊れるのではなく、民主主義が壊れるとテロが起きるのです。
 民主主義は国民のさまざまな政治的意見の代表者が議会で議論を行い、合意を通じて国民の意思が物質化される...という政治システムです。たとえ少数派であっても、国民の意見である限り、政府はそれを部分的にでも汲み上げて、実現しなければならない。というのは、政府は政権与党に投票した有権者の利益代表ではなく、反対派に投票した有権者をも含めた「国民全体の代表者」でなければならないらです。
 少数派の意見が、民主的手続きを経て、部分的にではあれ実現するプロセスがきちんと機能していれば、政府に対する暴力行動が頻発するというようなことは起きません。少数派の意見であっても、採り上げられ、吟味され、実現されつプロセスが整備されている限り、反対派の人々も民主主義の統治機構を壊そうとはしません。あくまで投票行動や合法的な市民活動や労働運動や学生運動を通じて政治に関与するにとどまる。
 しかし、このプロセスが機能不全になれば、少数派の国民は「自分たちの政治的意見が現実に影響を与えることはない」という無力感と疎外感に囚われることになる。それが今の日本で起きていることです。
 日本では投票率が低下の一途を辿っています。棄権する有権者は「選挙に行っても何も変わらない」と思っている。過半数の国民が自分の一票には現実変成力がないという無力感に囚われている。これは民主主義にとって危機的な徴候です。
 この10年間、自公連立政権が自分たちの支持層の利害だけを代表し、それ以外の国民の要望についてはほとんど「ゼロ回答」で臨むようになった。ふつうは政府が強権的・圧政的になると、民心は離反するものですが、日本ではそうならなかった。政府が独裁的になるほど、国民は萎縮し、少数派は腰砕けになった。この「成功体験」が政府を増長させたのだと思います。

―なぜ日本では民主主義が機能しなくなったのですか。

内田 日本の為政者たちがこの「成功体験」に居着いて民主主義の基本原則を忘れたからです。民主主義の原則とは、オルテガが道破した通り、「敵と共に生き、反対者と共に統治する」ことです。為政者はおのれの反対者や政敵を含めた全国民の代表として、「公人」としてふるまうように要請される。
 もちろん、「敵と共に生き、反対者と共に統治する」のはものすごく手間がかかりますし、気分もよくない。「公人」であるためには、さまざまな場面で「痩せ我慢」を強いられるし、反対派たちと膝突き合わせてどれほど熟議しても、得られるのはせいぜい「全員が同じ程度に不満足」な政策だけです。
 それよりはトップに全権を委ね、そのアジェンダに賛成する者だけで政府を形成して、反対者は全部排除する。そうやってトップの決定が遅滞なく末端まで示達される仕組みの方が「効率がいい」ということを言い出す人が出てきた。「民間ではそうだ」と言うのです。
 たしかに、株式会社の仕組みはそうです。株式会社ならトップの意見に反対する社員は左遷され解雇される。トップに賛同する社員が重用される。政策の適否については社会では議論しない。トップが決定して、その成否は「マーケットが判断する」。政策判断が正しければ株価が上がる。間違っていたら下がる。
 ビジネスの話としては「それらしく」聞こえますけれども、今の日本で行われている政治は彼らが言うような「株式会社」のようなものではありません。そもそも「マーケット」の定義が違う。
 株式会社なら株価はマーケットが決定します。そして「マーケットは間違えない」ということを疑うビジネスマンはいない。では、政治における「マーケット」とは何でしょう。本来なら「日本の国力評価」がそれに当たるはずです。国際社会におけるプレゼンス、外交力、経済力、文化的発信力などなど。でも、ご存じの通り、日本の国力はこの10年ひたすら下がり続けています。経済でも、人権でも、報道でも、教育でも...さまざまな指標で日本は先進国最下位が定位置です。これは本来なら「経営の失敗」を意味するはずですが、日本ではそうは解釈されない。というのは今の政府は「マーケット」を「選挙」に、「株価」を「議席獲得数」に読み替えているからです。「選挙で多数派を制した。民意を得た。ということは、これまでの政策はすべて正しかったということだ」というまったく没論理的な理屈が日本ではまかり通っている。
 株式会社では独裁が許される。トップの経営方針が気に入らないなら会社を辞めろということが言える。でも、国家の場合は政府が気に入らないから日本人を止めるというわけにはゆかない。日本で生業を営み、ここで集団を形成し、ここでしか生きられないという人たちが圧倒的多数だからです。
 日本の政治が耐えられないので、海外に逃げることができる人もいるでしょう。でも、それができるのは一握りです。1億人以上の人は日本列島から出て暮らせるほどの「機動力」を持っていません。この状況は企業とはまったく違います。でも、今の政権与党は「トップの経営判断に反対する人間は解雇」されて当然だと思っている。だから、国政でも、少数派国民の意見は汲み上げる必要はないということになる。
 しかし、少数派を無視する政治を続け、少数派の国民たちが「自分たちの政治的意見が実現する回路がどこにもない」という無力感に取り憑かれると、民主政はもう持ちません。
「少数派の意見に耳を傾けなければならない」というのはきれいごとではなく、民主主義国家を維持するための政治的リアリズムです。J・S・ミルは民主主義のもとでも多数派が少数派の意見を無視する「多数派の専制」に警鐘を鳴らしましたが、それは「少数派の意見も聞いてあげようよ」という親切心からの話ではなく、「少数派の意見を採り上げる回路を確保しておかないと、いずれ少数派はテロやクーデタによって暴力的な仕方で政策決定に関与しようとする」という危機感があったからです。政府と国民の間には一定の緊張関係が必要です。

― しかし、今の日本ではそういう恐怖心や緊張関係が失われています。

内田 政府と国民の間の対立関係は深まっていますが、政府の側には国民を恐れる気持ちがない。それより政権を支持する人たちの主張をどんどん汲み取ることで、コアな支持層を固めている。政治的リソースは有限ですから、コアな支持層にリソースを気前よくばらまけば、それ以外の反対派の国民、「無党派」の国民には何も行き渡らないようになる。ここでも二極化が起きている。政権のコアな支持層に国富が偏在し、多数の国民は割を食っている。こうなると国民間の対話と合意形成はしだいに困難なものになってきます。「みんな同じ日本人じゃないか。一蓮托生だ」というかたちで国民的統合を果たすことが困難になる。 
 菅政権の時の日本学術会議の新会員任命拒否が好個の例ですけれど、あれは「政府批判をする学者には公的支援を与えない」という政権の強気をアピールしたものです。政府におもねる「御用学者」しか公的支援を得られないシステムにすればたぶん学者や知識人は政府批判を控えるようになるでしょう。でも、権力に対する忠誠度を以て学術的能力評価に代えるということをしたら、日本の学術に先はありません。
 でも、今の日本ではあらゆる領域で「政権支持者か/反対派か」の踏み絵が用意されていて、「反対派」を選んだ場合には「資源分配には与れない」というルールが徹底されている。

― そもそも近代市民社会論には、抵抗権や革命権という考え方があります。悪政や暴政を行う為政者を暴力的に倒すことは許されるのではありませんか。

内田 民主主義には、強権的な政府に対する抵抗権・革命権が初期設定されています。もともと民主主義は王政を打倒して、それに取って代わるための政治理論ですから、「人民の生命、自由、幸福追求の権利」を否定する政府を倒す権利は人民の側にあるとされています。実際、フランス革命でもアメリカ独立戦争でも、それまでの支配者を市民が倒して新しい政府を立てた。ですから、アメリカ独立宣言には「人民は政府を改造または廃止し、新たな政府を樹立する」権利を有すると明記されています。
 でも、それから11年後に制定された合衆国憲法にはもう抵抗権・革命権は明記はされていません。かろうじて、修正第一条に「人民が平穏に集会し、また苦痛の救済を求めるため政府に請願する権利」という希釈された表現で残されただけです。でも、「平穏に(peaceablly)」という条件が付けられた以上、これを抵抗権・革命権を保証した条文とみなすことはできません。

― 一連の襲撃事件後、「暴力は決して許されない」と強調されています。しかし、政府は増税で国民のカネを強奪したり、辺野古移設で反対住民を排除して自然を破壊したりして国民に暴力を振るっています。政府の暴力に対して、国民が暴力で対抗するのは許されるのではありませんか。

内田 政治権力は暴力装置を占有しています。それに対して国民が対抗することもありますが、それはあくまで「弾圧に抗う」という意思表示のための象徴的な行動であって、それ自体は政治的暴力の発動ではありません。
 政府は国民に対して暴力をふるうことができます。圧倒的強者ですから、市民が政府に暴力で対抗しても勝ち目はない。むしろ、市民が非合法な暴力に訴えれば、政府の弾圧を正当化する口実を与えてしまう。 
 強者への対抗手段は暴力ではありません。「倫理的優位性」です。政府が倫理に反する行為をしても、市民は同じことをしてはならない。どれほど暴力をふるわれ、侮辱を受けても、倫理的な優位は捨てない。それだけが市民の武器だからです。
 例えば、辺野古移設の反対運動がいまだに強い影響力を持ち続けているのは、「権力の理不尽に対して暴力に訴える」ということをしないで、被害者のポジションに忍耐強くとどまっているからです。もし反対住民が機動隊にダイナマイトを投げつけるようなことをしていたら、土砂搬入事業がしばらく停滞したとしても、反基地運動はその時点で終わっていたでしょう。

 少数派の最大の武器は権力に対する倫理優位性です。一見非力のように思われますが、決して無力ではない。歴史を見れば、多くの勝利の先例があります。ガンジーの非暴力不服従も、キング牧師の非暴力的な公民権運動も、そうやって目的を達した。私たちもそれに倣うべきだろうと思います。「決して暴力には訴えない」という抑制を保ちながら、「権力の理不尽を許さない」という意思を明確に示すことです。

― 戦前の日本では経済不況から政治不信が広がり、テロやクーデターが起きて政党政治が崩壊しました。こうした戦前の歴史は現在の状況と似ています。戦前の歴史は繰り返すと思いますか。

内田 歴史が繰り返すと私は思いません。戦前のテロやクーデタを主導したのは何人かの思想家であり、実行主体は軍部でした。大川周明、北一輝、権藤成卿らはそれぞれあるべき国家像を示し、それに共鳴した青年将校が軍隊を動かしてクーデタを企てた。
 でも、今の日本には現在の日本に代わるべき国家像のオルタナティブを提示するだけのスケールを持った思想家もいないし、独自の政治判断でクーデタを計画し、実行する「軍人」もいません。
 自衛隊は警察予備隊の創設から数えて70年余の歴史を持ちますが、戦前の反省もあって、政治への関与を避けている。自衛隊の一部が「自衛隊政権」の樹立を求めて、組織的なテロやクーデターを起こすということはまず考えられない。
 現に、自衛隊に思想教育のために招聘されている講師たちの顔ぶれを見ればわかりますが、ほとんどが現政権の支持者たちです。現政権支持のイデオロギーを注入された組織が政権の転覆を企てるということは理論的にあり得ません。

― 仮に戦前と同じ条件がそろい、自衛隊がテロやクーデタを試みても、それは必ず失敗すると思います。日本最大の暴力装置は自衛隊ではなく、在日米軍だからです。

内田 万が一、自衛隊が日本国内で軍事行動を起こすということになったとしても、在日米軍の許諾を事前に得なければならない。自衛隊機が米軍基地上空を無許可で飛行するというようなことを在日米軍は許すはずがありませんから、自衛隊がクーデタを起こすことがあったとしたら、それは在日米軍との共同行動になるということです。つまり、ホワイトハウスがその時の日本政府を「廃絶しろ」と命令したということです。日本の「属国化」が限界まで進んで、もはや国家の体をなさなくなった時にはそういうこともあるかも知れません。

― 戦前の歴史が繰り返されないならば、日本の未来はどうなると思いますか。

内田 現在、日本の民主制は崩壊過程にあります。このまま政府とその「取り巻き」たちが公権力を私的目的に用い、公共財を私財化するネポティズム政治が続くうちに、日本は後進国に転落するでしょう。

― 今の日本では反体制運動は白眼視され、国民は「抵抗の原理」を失っているように思います。しかし、歴史的には天皇に根拠を置く「抵抗の原理」が機能してきました。

内田 日本では、天皇と国民が中間的な権力機関の媒介抜きに直接結びつく政体を理想とする「一君万民」の考え方が深く定着していました。明治維新も、自由民権運動も、昭和維新も、めざした政体は原理的には全部同じです。「一君万民のコミューン」です。日本では「一君万民」以外のイデオロギーが政治革命の起爆剤になったことが過去にはありません。
「一君万民」イデオロギーで政治革命を企てたのは三島由紀夫が最後だったと思います。でも、その時点ですでに「一君万民」のスローガンには政治的喚起力がなくなっていた。三島が言う通り、すでに「断弦の時」が過ぎて、それからあとの日本人は伝統的な「抵抗の原理」「革命の原理」失ってしまったことを三島は個人的なテロを通じて確認したのだと思います。
 しかし、天皇が時の政治権力とは無縁の境位にあって倫理的卓越性を体現している唯一の政治的存在であることに変わりはありません。ここまで国民の間に政治的虚無主義が広がりながら、なお社会が道徳的無秩序状態にまで崩れ落ちずに済んでいるのは天皇制の倫理的な支えがあるからでしょう。日本の民主主義の復活のためには、立憲デモクラシーと天皇制を共存させた、日本独自の政体を日本人自身が構想し、創造してゆかなければなりません。(4月23日 聞き手・構成 杉原悠人)