『街場の成熟論』まえがき

2023-06-07 mercredi

 みなさん、こんにちは。内田樹です。
 お買い上げありがとうございます。まだ買おうとどうか迷って、手に取った方もできたら「はじめに」だけ読んでいってください。たいしたお時間はとらせませんから。
 この本はいろいろな媒体に寄稿した原稿のコンピレーション本です。たくさんの原稿の中から文藝春秋の山本浩貴さんが選択して、テーマ別に配列してこの本を作ってくれました。
 僕はこれまで20年間でたぶん200冊くらい本を出していると思います。最初のうちはよく「ゴーストライターがいるの?」とからかわれましたけれど、今になって思うと、僕にとっての「ゴーストライター」は担当編集者だったんじゃないかと思います。
 別に彼らが僕に代わって書いてくれるわけじゃないんですけれども、彼らは僕の書いたものを素材にして、思いがけない作品を創り出してくれる。それを読んで、書いた僕自身が「へえ、オレはこんなことを書いたんだ」とちょっとびっくりする。そして、「そうなんだよ、これこそオレが言いたかったことなんだよ」と膝を打つ(自分で書いているから当たり前ですけれど)。そういう本をもっと読みたいと思うので、ついつい頼まれると原稿を書いてしまう...だから、編集者というよりは共同制作者ですね。僕はそういう「共作者」に恵まれていたと思います。
 この本の編集者である山本さんは僕が2001年に『ためらいの倫理学』という本を出したときに(「評論」的な書き物のデビュー作でした)最初に接触してきた編集者の一人です。だから、共作の歴史はもう20年を超えます。共作本も10冊を超えていると思います。それくらい揃うと、これはもう「山本浩貴編集」というタグをつけられるほどに個性的なシリーズになります。
 そのシリーズの一冊であるところの本書ですけれども、『街場の成熟論』というタイトルは山本さんが考えてくれました。テクストを選んだのも山本さんですから、この本の主題は「成熟」ということになるのかと思います。自分の本について「思います」というのも変ですけれど、共作ですから、ところどころ自分でもよくわからないところがあるんです。

 僕はこの数年ずっと「成熟」の必要性について語ってきました。今の日本社会を見て、一番足りないなと思うのがそれだからです。でも、「成熟」が論争的な言論の主題になったことは僕の知る限り、過去半世紀ほど一度もありませんでした。
 それはたぶん「成熟」が「政治的正しさ」とはレベルの違う話だからだと思います。「成熟/未熟」は「正しい/間違っている」という枠組みでは論じることができません。未成熟であることは別に誤りでもないし、罪でもない。「大人になってね」という働きかけをアフォードする存在のことを「子ども」と呼ぶ。それだけのことです。「大人になってね」という働きかけが功を奏すれば、子どもたちは大人になる。失敗すれば、社会は子どもばかりになって、その人たちが権力や財力や発言力を持ってしまうといろいろな不具合が生じる。
 だから、大人の頭数を増やす必要がある。別に日本人全員が大人になる必要はありません。全体の7%くらいが「まっとうな大人」であれば、世の中はなんとか回ります。10%を超えたら「かなりよい世の中」になるし、大人の比率が15%に達したら、「たいへんに住みやすい世の中」になります。
 だから、とりあえずの目標は7%の大人を確保することです。そのためには100人のうち7人くらいの子どもさんに「大人になりたい」と思ってもらわないといけない。でも、「大人になれ」と頭ごなしにどなりつけたってダメなんです。「大人になりたい」という気持ちは内側から自然に生まれないと意味がない。では、どうすればいいのか。
 僕はこの手の課題については「トム・ソーヤーのペンキ塗り戦略」を採用することにしています。ご存じでしょうけれど、トム・ソーヤーはいたずらの罰として壁のペンキ塗りの仕事をポリーおばさんに命じられます。もちろんトムはいやでしょうがない。そこで一計を案じます。友だちが通りかかったときに振り返りもせずに懸命にペンキを塗っている。友だちは怪訝に思ってトムに「何やってんの?」と声をかけます。トムはペンキ塗りに夢中で返事をしない。もう一度声をかけるとトムはようやく振り返って、「ペンキ塗ってんだから邪魔しないで」と言ってペンキ塗りを続ける。すると友だちは好奇心にかられて「それ、面白いの?」と訊ねる。トムはすかさず「この世でこれほど楽しいことはないね」と応ずる。ここまでくるともう罠にかかったも同然ですね。友だちは「ねえ、ちょっとだけやらせてくれない」とにじり寄って来る。トムはもちろんにべもなく「ダメだよ」と言う。そうなると友だちはさらに食い下がる。最終的にトムは「しぶしぶ」ペンキ塗りの苦行を友だちに譲って、自分はほいほいと遊びにでかけてしまうのです。
 人に何か仕事をして欲しかったら、その仕事が「楽しくてしかたがない」かのようにふるまう。これは経験的には確かです。ですから、子どもたちのうちに「大人になりたい」という意欲を発動させるためには、「大人であることは楽しい」ということをきちんと伝える必要がある。
 もし今の日本の子どもたちに成熟への意欲が著しく減退しているとしたら、それは子どもたちが「楽しそうに暮らしている大人」を間近に見る機会が少ないということだと思います。
 かなり目減りしているとはいえ、今の日本社会にだって、大人の頭数はそこそこいるはずなんです。でも、その大人たちを見て、子どもたちが「あんな大人になりたい」と強く願うということが起きていない。ということは、「大人なんだけれど、楽しそうにしていない人」が多いということです。
 なぜでしょうか。それは世の中がうまく行っていないのは、「社会正義が実現していないからだ」というふうに考えている人が多いからだと思います。もちろん、そうなんです。今の世の中の生きづらさや理不尽のかなりの部分までは社会的な欠陥のせいなんですから、それを修正しなければいけないというのはまったくその通りなんです。でも、「正義を実現する」「間違いをただす」という考え方ばかりしていると、人はつい表情が険しくなるんです。不機嫌になる。怒りの激しさによって、正すべき「諸悪」のスケールと深さを表現しようとする。
 僕はそれが「悪い」と言っているんじゃないんですよ。もちろんそれで正しい。でも、そればかりしていると、「大人というのは不機嫌なものだ」という印象を子どもたちに刷り込んでしまうことになる。そのことを懸念しているのです。
 だって、誰も「はやく大きくなって、不機嫌な人間になろう」とは思わないからです。子どもたちはたぶん今の日本の怒る大人たちを見て、「言っていることはまったく正しいと思うけれど、その人のような人間になりたいとは思わない」という感じている。それよりは、「言っていることは正しくないようだけれど、なんだか陽気で、高笑いしている人たち」を見て、「ああいうのになってもいいな」と思っている。誰とは言いませんけれど、「政治的に正しくないこと」を大声で言い募る人たちって、かなり技巧的に「上機嫌」を演じていますね。機嫌が良いことが子どもたちにアピールすることを直感的にわかっているんです。そのあたりの人間観察の鋭さはなかなか侮れません。
 まっとうな大人たちは不機嫌な顔をしていて、その一方で、あまりまっとうじゃない人たちはテレビの画面やYouTubeの配信動画でげらげら笑っている。彼らは世の中の「きれいごと」や「建前」を笑い飛ばして、それに代わって、剥き出しの「力」(権力やお金や名声)を求めるのが人間の本性であるというかなり幼稚な人間観を繰り返し発信している。子どもたちがそれを見て、成熟への意欲を殺がれているのだとしたら、これはかなりシリアスな問題ではないかと僕は思います。
 この「政治的に正しくないけれど妙に上機嫌な人たち」に「黙れ」ということはできません。「言論の自由」は守らなければいけませんから、思うことをお好きに話してくださって結構です。でも、この「成熟への意欲を殺ぐ言説」に対抗して、僕たちとしては「大人であることは楽しい」ということをあらゆる機会を通じて子どもたちに伝えなければならない。
「政治的に正しいことを機嫌よく言う」のって、難しいんです。すごく難しい。それができている人はあまりいません。でも、その困難なミッションを果たさないと子どもたちに「成熟することへのインセンティブ」を提供することができない。「正義を実現すること」もたいせつですけれど、それと同じくらいに、あるいはそれ以上に未来の世界をよりよきものにするために「子どもたちの市民的成熟を支援する」ことがたいせつです。そして、子どもたちが不機嫌な大人を見て、「こんな人になろう」と思うということは決してない。そのことをぜひご理解頂きたいのです。子どもたちの成熟を支援する「先達」になる意思がある大人の人たちはぜひ日々笑顔で過ごして頂きたいと思います。
 と自分で言っておきながら、これからお読み頂く本書の文章はどれものべつ笑顔で書かれているというわけではありません。腹を立てた勢いに任せて書いたものもあります。それでも、通読して頂ければ、世の中の仕組みをときほぐして、人としてなすべきことを明らかにするという「大人の仕事」を僕は比較的機嫌よく果たしているのではないかと思います。
 もう長くなり過ぎたので、この辺に終わりにしますけれども、そういう趣旨の本ですので、お読みになるみなさんもできたら、ときどきでいいですから、笑いながら読んでください。

2023年6月
内田樹