あとがき
みなさん、こんにちは。内田樹です。『慨世の遠吠え2』お買い上げありがとうございます。まだお買い上げではなく、立ち読みして「買おうかどうか」迷っている読者の方にも手に取って下さったことについてお礼申し上げます。買おうか買うまいか、気持ちが決まるまで、もうしばらくこの「あとがき」を立ち読みしていってください。
この本は鈴木邦男さんとの対談をまとめた二冊目の本です。二冊を通して読むと、僕がこの対談を通じて鈴木さんに強く影響されているのがわかると思います。僕が鈴木さんから学んだのは、なによりも「人として独立していること」のむずかしさとたいせつさでした。「あとがき」に代えてその話をしたいと思います。
鈴木さんは「独立独行」の人です。「自立した思想家・運動家」というふうに形容する人もいるかも知れませんけれど、「自立」では言葉がいささか足りない。
「自立」という言葉はいまでは日常的によく使われます。「精神的に自立する」とか「経済的に自立する」とかいうふうに。でも、60年代に、吉本隆明が『自立の思想的拠点』を書いたころは、「自立」はかなり尖った言葉でした。残念ながら言葉の圭角は使われ過ぎると摩滅します。今は「自立したい」と言っても「あ、そうですか。好きにしたら」という気の抜けたような反応しか呼び起こせません。仕送りを断って、バイトで家賃を払うくらいでも、親が教え込んだ世間知の薄っぺらさに気がついても「自立した」ことになる。
もちろん、それはそれでたいせつなことです。でも、本来「自立」にはもっときびしいニュアンスがあったはずです。吹きすさぶ逆風に耐えて、単身、前人未踏の荒野を歩むというような覚悟がその語には託されていたはずです。でも、いま「自立」はもうそういうハードな語感をもたらす言葉ではなくなった。だから、鈴木さんを評するのに「自立した思想家・運動家」では僕は物足りない。それよりは「独立独行の人」という少し踏込んだ形容を贈りたいと思います。
鈴木さんは現代日本の論壇にあって(論壇以外のところにあっても)、まったく独特の立ち位置を占めています。他に類を見ない。想像すればわかります。鈴木さんを想定した対談とかシンポジウムに鈴木さんが都合がつかなくて出られないというときに「じゃあ、鈴木さんの代わりに・・・」と言って、「鈴木さんが言いそうなこと」を代わりに言ってくれそうな人を探しても決してみつかりません。そんな人はいまの日本にはいません。
政治的論件について所見を徴したいというときに、「鈴木邦男の立場」を代弁できる人がいまの日本にはひとりもいない。これはよく考えたらすごいことです。
オリジナルであるというのは、そういうことです。
要領のいい人の中には「いや、オレは『鈴木邦男みたいなこと』を言えるよ」といま思った人がいるかも知れません。でも、僕は絶対できないと思う。鈴木さんがどこかで言ったことを記憶して、言葉づかいを真似て、演技的に繰り返すことはできるかも知れません。でも、絶対できないことがある。それは鈴木さんの「あ、そうか!」です。
鈴木さんは僕との対談でも、何度も「あ、そうか!」と膝を打ちました。「そういう考え方があるとは想定していなかった」というとき、鈴木さんは実にうれしそうに膝を打ちます。自分がずっと考えていたことの正しさを鮮やかに論証できたときよりも、自分が一度も考えたことのないアイディアに触れたときの方が鈴木さんはうれしそうです。そこが鈴木さんの際立ったところです。自説をうるさく押し通す人の真似はできますけれど、自説を撤回できる人の真似はできない。それを逆から言えば、うるさく自説を言い立てている人は誰かの口真似をしており、自説を潔く撤回できる人は自分の頭で考えているということです。
わかりにくい話ですね。もう少し分かりやすい喩えを使ってみます。
「虎の威を借る狐」ということわざがあります。虎の実力を背景にして、空威張りしている狐のことです。この狐は虎が居丈高に命令を下したり、異論を一喝して退けたりする真似はたいへん上手に再現できます。でも、虎に代わって「対話」や「交渉」をすることはできない。絶対にできません。仮に虎に対して「ちょっとだけの間、縞模様を茶色の無地に換えて頂けますか?」とか「いま目の前に兎が歩いてきますけど、今回だけ食べずに我慢してもらえますか?」とかいうオッファーがあったときに、虎であれば採否を即断できます(「茶色の無地の方がダートで狩りをするとき便利かも」とか「兎って、小骨が多くて食いにくいんだよな」とかいう虎固有の判断基準に照らして)。でも、「虎の威を借る狐」にはこの採否の判断ができない。というのは、「虎の虎性を形成している本質的条件は何か」が狐にはわからないからです。虎は自分のことですから、「虎とは何であるか」を知っています。自分が自分自身であるためには、何が必要であるかを知っている。絶対に譲ることのできない「虎の本質」とは何かを知っている。縞模様は別に虎の本質ではない(毛が生え替わることだってありますから)、腹一杯のときには獲物がそばを通っても見向きもしない。それでもいささかも虎の虎性は揺るがない。でも、狐にはそれがわからない。偉そうに吠えている虎の真似はできるけれど、「譲る虎」や「折れる虎」の真似はできない。
人間の場合も同じです。
ある人が自分のオリジナルな知見を語っているのか、誰かの請け売りをしているのかは、実際には簡単に判別できます。「偉そうに、断定的に、定型的な言葉づかいで、同じことを何度も言うやつ」はおおかた誰かの請け売りをしていると判じて過ちません。自分の頭で考え、自分の言葉で語る人、独立独行の人は、そうはなりません。
そういう人はつねに自分の中から湧き上がってくるアイディアの尻尾をつかまえようとしています。自分の内側を探りながら、何か新しい思念や感情の兆しがあれば、それを追いかける。それは外側から到来するものについても同じです。それまで自分は思いつかなかったけれど、この先自分のアイディアを表現する役に立ちそうなことを誰かが口にしたら、ついうれしくなる。「あ、そうか(その手があったか)」と膝を打つ。
僕たちは「自説を一歩も譲らない」という非妥協的な態度を貫いている人間を見ると、うっかりして「深い確信があるからこそ、ああいう態度ができるんだ」と思ってしまいます。でも、違います。ほんとうは逆なんです。非妥協的な人は、自分が述べていることのうちのどこが「ほんとうに重大」で、どこが「どうでもいいこと」なのか識別できないので、しかたなく「すべて譲れない」という硬直的な態度をとっているのです。自分に深い確信を持っている人は、もっとずっと柔軟です。自分の意見のうちのどこまでが「譲ってもよいところ」で、どこからが「譲れないところ」のか知っているから、臨機応変、変幻自在です。
小津安二郎はこんな至言を残しています。
「どうでもよいことは流行に従い、重大なことは道徳に従い、芸術のことは自分に従う。」
鈴木さんもたぶん小津安二郎のような重層構造になっているのだと思います。
僕とのこの対談でも、「どうでもよいこと」については僕のおしゃべりをにこにこ聞き流し、「重大なこと」については興味深げに質問をします。でも、「ほんとうにたいせつなこと」については僕に同意を求めることさえしない。鈴木さんは自分が確信していることについては他人の承認を必要としていないからです。
だから、鈴木さんは誰とでも会うんだと思います。どんな本でも読む。教えられて気づいたことがあればにっこり笑って「あ、そうか」と膝を打つ。この開放性と身のこなしの柔軟さは、鈴木さんにとってのぎりぎり削ぎ落として最後に残る「絶対に譲れないところ」が細身の刀身のように鈴木さんの魂に深々と突き刺さっているからだと僕は思います。「そこだけは何があっても譲れないところ」をわきまえている人にとって、それ以外のことはすべて些事である。そういうことだと思います。
鈴木さんは「独立独行の人」であると思うと最初に書きました。それは、鈴木さんのあの温顔の下には、「ほんとうにたいせつなこと」を貫くためには、誰の同意も承認も求めない、そのようなものを求めても仕方がないというきっぱりとした禁欲と諦念が蔵されていると思うからです。鈴木さんが笑顔を絶やさないでいられるのは、まわりの人間が鈴木さんをどう遇そうと、どう評そうと、それに動じることがないからなんだと思います。
この「あとがき」を書き始める少し前にアメリカでは大統領選挙があり、ドナルド・トランプが大統領に選出されました。来年にはフランス、ドイツで選挙があります。いずれの国でも、政治過程は「一国主義」「排外主義」「アンチ・グローバリズム」の方向にきしみを立てて方向転換しつつあります。国際社会の未来について指南力のあるメッセージを発信できる政治家はもう世界のどこにも見当たりません。どこからも怒りや恨みや嘆きの言葉しか聞こえてこない。「これからの世界はこうあるべきだ」という向日的なヴィジョンを語る人がどこにもいない。世界は五里霧中のうちに突入した、というのが僕の率直な感想です。このあと世界はどうなるのか、日本はどうなるのか、僕にはっきりとした見通しがあるわけではありません。でも、そういうときに「私はどうすればいいか正解を知っている」としたり顔で言う人間には付いていってはいけないということは経験的に知っています。そうではなくて、こういうときは「衆知を集めることができる人」を探して、その言葉に耳を傾けるべきだと思います。解答することの困難な問題について、自分とは違う立場からの言葉に広々と心を開くことの出来る開放的な知性に耳を傾けるべきだと思います。鈴木邦男さんはいまの日本にわずかに残っているそういう得がたい智者です。一人でも多くの読者が鈴木さんの思想と運動から生きる力と知恵を学んで欲しいと僕は切に願っています。
この希有の人との対談の機会を持たせてくれたことについて、鹿砦社の福本高大さんに改めてお礼申し上げます。また本書への「推薦文」をお寄せくださいました、白井聡、かわぐちかいじの両氏のご厚意にも心から感謝申し上げます。みなさん、どうもありがとうございました。
(2023-01-27 16:30)