数年前から、近畿圏のある県の知事から時々呼ばれて、提言を求められている。このところは哲学者の鷲田清一先生とご一緒である。地方自治のトップが私たちの浮世離れした話を聴いてくださるのである。ありがたいことである。
鷲田先生と私が地方自治体の長に呼ばれて意見を徴されたというのは、もう10年以上前、当時大阪市長だった平松邦夫さんに呼ばれて以来である。鷲田先生はその頃阪大総長だったと思う。その時は宗教学者・僧侶の釈徹宗相愛大学教授もご一緒だった。三人で市長を囲んで、教育について思うことを自由に話した。よい時代であった。それから絶えて政府からも地方自治体からも「ご意見拝聴」というような機会はなかったのだが、数年前からある県知事からときどきお声がけ頂くようになった。
鷲田先生はこの集まりで前回から県立大学の無償化を提言している。掬すべき見解だと思う。学費も寮費もゼロ。奨学金も出す。規模の小さな大学だから、県財政に響くような支出にはならない。
今、国公立大学の初年度納入金は80万円を超える。それだけの貯金を持っている高校生はまずいない。だから、「金主」たる親に出してもらうしかない。多くの親はそれを「教育投資」ととらえるだろう。投資であるなら短期かつ確実に回収したい。いきおい「実学」志向になる。「投資家」は哲学や文学や数学や歴史学のような何の役に立つのか分からない学問領域は見向きもしない。「教育投資」という言葉が流通するようになってから日本の学知の厚みが失われたのはそのような理由による。
だが、学費がゼロなら受験生は「金主」に気がねすることなく、好きな学問領域を選択することができる。無償化すれば、家が貧しいが大学に行きたいという「貧しい秀才」と自分の進路は自分で選びたいという「不羈の青年」が集まってくる(はずである)。そういう学生ばかりだと多少扱いに手を焼くだろうが、ずいぶん賑やかな大学になるはずである。
定員数百人なら他大学の足をひっぱるほどの数ではない。成功すれば、それを真似て、他の公立大学も無償化に踏み切るかも知れない。そうなれば世の受験生たちすべてにとって朗報である。
もう何度も書いていることだが、私が大学に入学した1970年、国立大学の入学金は四千円、半期授業料六千円だった。一万円札一枚で大学生になれた。一万円の貯金なら高校生にもあった。だから、自分で好きな専門を選べた。親が何と言おうと、「じゃあ、自分で授業料出すからいいよ」でことが済んだ。
受験生のためにも、大学の知的学知の再活性化のためにも、ぜひ大学無償化を実現したいものである。
(2023年1月20日)
(2023-01-20 10:49)