小田嶋さんの思い出

2023-01-01 dimanche

 小田嶋隆さんの訃報が届いたのは、禊祓いの行をしている途中だった。メールを読んでから道場に戻って行を続けた。小田嶋さんは、こういうのが大嫌いな人だったと思いながら、身勝手ながら供養のつもりで祝詞を上げた。
 
 僕が最初に小田嶋さんの文章を読んだのは70年代終わりか80年代初めの、東京の情報誌『シティーロード』のコラムでだった。一読してファンになった。「若い世代からすごい人が出てきたな」とか「端倪すべからざる才能である」とか思って驚いたわけではない。ただ、「この人のものをもっと読みたい」とだけ思った。それだけ中毒性のある文章だった。それから彼の書くものを探して、むさぼるように読むようになった。
 実際に拝顔の機会を得たのはそれから20年以上経ってからである。当時毎日新聞社にいた中野葉子さんが憲法九条をテーマにしたアンソロジーを編みたいというので僕に寄稿を依頼してきた。他に誰か書いて欲しい人がいますかと訊かれたので、平川克美、小田嶋隆、町山智浩の三人の名前を挙げた。
 平川君は小学校時代からの友人だから書いてくれると思ったが、小田嶋、町山ご両人には会ったことがなく、僕が一方的に「ファン」だったというだけである。果たして寄稿依頼に応じてくれるかどうか心配だったが、二人とも寄稿すると返事をくれた。中野さんは他にも何人か作家や評論家に寄稿を依頼したが、全員が断ってきて、結局本に寄稿したのは、僕たち四人だけだった。それが『九条どうでしょう』(2006年)である。
 本が出ることになったので、出版祝いをすることになって、六本木のレストランに集まった。僕はその時に初めて小田嶋、町山のご両人とお会いすることになった。会って見たら、町山さんは宝島社にいた頃に小田嶋さんの担当編集者だったという因縁があって、二人の間で話が盛り上がった。僕は目の前に「アイドル」が二人いるので、ただそれをぼんやり眺めているだけで満足していた。平川君はこの二人のことをそもそもよく知らなかったのだが、たちまち小田嶋さんと意気投合してしまった。それがきっかけになって、それから僕たちと小田嶋さんはよく会うようになった(町山さんはすでにアメリカ在住だった)。

 僕と小田嶋さんは性格的にほとんど共通点がない。
 小田嶋さんは美食に全く興味がない。新鮮なお刺身にも、脂ののったお肉にも興味を示さないで、箸でいやそうに遠ざける。僕は「うまいうまい」とほおばりながら完食する。小田嶋さんはお酒も嗜まない。僕は目を細めてくいくいと杯を傾ける。小田嶋さんはその代わりにお菓子を食べる。麻雀やっている間もさまざまなジャンクなスナック菓子を口中に投じ続ける。
 小田嶋さんは武士道とか武道とか修行という類のことが嫌いだった。宗教も苦手だった。だから、神社仏閣には足を向けず、怪力乱神を語ることを好まなかった。僕は武道家で、修行が好きで、スーパーナチュラルな話に目がない。二人の間にはあまり共通点がない。でも、僕たちはとても仲が良かった。
 なにより僕は小田嶋隆が書くものが大好きだった。追悼のために、彼の批評性とはどういうものだったのか、それについて個人的な感想を記しておきたい。

 彼の批評的言説のきわだった個性は、自分の立ち位置が「異端」であることを前提にしているのだが、「正系」の人たちを言葉の力で自分の手元へ手繰り寄せようと努力する点にあった。孤立していることは彼にとっては初期条件なのであり、彼はそのことにそれほど大きな意味を認めていなかった。「異端者」として「正系」や「多数派」や「良風美俗」を冷笑したり、一刀両断にするということを彼はしなかった。それは、少数派であることは特別なことではない。恥じることでもないし、誇ることでもないと彼が思っていたからだと思う。少数派であるのは、ただ、自分と同じように考える人が少なく、同じようにふるまう人が少ないという散文的な事実のことに過ぎない。少数派と多数派の間には正否の差も優劣の差もない。小田嶋さんはそういう「オープンマインデッドな少数派」だった。
 彼は少数派の立場から、多数派に対して彼我の違いが奈辺にあるかを「説明」しようと試みた。これは稀有のことだと思う。ふつう「少数派」「異端」は「多数派」「正系」に背を向ける。まず手を差し伸べたりはしない。でも、小田嶋さんはまっすぐ多数派に向かって語りかけた。そして懇切丁寧に「説明」を試みた。もう一度言うが、これは稀有のことである。ふつう「少数派」「異端」を任じる人たちはもっと不親切である。仲間内だけで通じる符丁を以て語り、「俗衆の頭越しに、少数派同士で目配せをし合う」ような感じの悪いことをする。小田嶋さんはそういうことを絶対にしなかった。「この固有名詞を知らないほど無知なやつは読者に想定してない」とか「この引用の出典を知らないようなど素人には言ってきかせることはない」というような横柄な構えを彼はしたことがない。彼が引くその固有名詞や引用がどうしてここで出てくるのか、その必然性について「事情を知らない人」に向かって説明する労を彼は惜しまなかった。その構えを僕は「親切」と呼ぶのである。

 彼の書くものは本質的に「説明」だった。「私は世の『ふつうの人たち』が考えるようには考えないし、『ふつうの人たち』が用いるような言葉づかいをしないのだが、それには個人的な経緯や理由があり、それをみなさんは理解できるはずである」というのが小田嶋さんのスタンスだった。彼の際立った個性は「それをみなさんは理解できるはずである」という部分にある。
 ふつう自ら「異端者」、「少数派」を任ずる書き手は、多数派に向かって説明したり、説得したりする手間をかけない。彼らの知性をあまり評価していないからだ。それよりはむしろ、「素人には何を言っているのかがわからない」という謎めいた演技をチャームポイントにして言論市場での自分のニッチを確保しようとする。たしかに、これは渡世上は有効な方法である。でも、小田嶋さんはそういう「すかした」書き方が大嫌いだった。
 もう一度言うが、小田嶋さんは自分が異端であり、少数派であることを特別なことだと思っていなかった。彼の少数性は、比喩的に言えば「いつまでも夏休みのつもりで遊んでいたら、周りの友だちが秋になって一斉に受験モードに切り替わってしまったのだが、それに気付かず、学生服をきちんと着込んだ同級生の間にひとりだけアロハと半ズボンとゴム草履で取り残された高校生」の孤立に近い。
 小田嶋さんが橋本治の『革命的半ズボン主義宣言』を高く評価していたことはエッセイにも書かれている。僕と平川君が彼が亡くなる10日前に見舞いに訪れた時、病床から半身を起こして、小田嶋さんは言語と文学について、最後の力を振り絞るように熱く語ってくれた。その時に小田嶋さんが最後に言及した作家は橋本治で、著書は『革命的半ズボン主義宣言』だった。実は僕は小田嶋さんがそれほどまでに橋本治にこだわりがあったとは知らなかった。でも、彼はその本から受けた感動について、2011年6月にこう書いていた。

「私はこの本を、20代の頃に読んだ。著者は橋本治。初刷の発行は、1984年。1991年には河出書房新社から文庫版が出ているが、いずれも既に絶版になっている。Amazonを当たってみると、版元にも在庫がない。名著なのに。
 というわけで、手元に実物が無いので、詳細ははっきりしないのだが、私の記憶しているところでは、本書は、「日本の男はどうして背広を着るのか」ということについて、まるまる一冊かけて考察した、とてつもない書物だった。以下、要約する。
1. 日本のオフィスでは、「我慢をしている男が偉い」ということになっている。
2. 熱帯モンスーン気候の蒸し暑い夏を持つこの国の男たちが、職場の平服として、北海道より緯度の高い国の正装である西洋式の背広を選択したのは、「我慢」が社会参加への唯一の道筋である旨を確信しているからだ。
3. 我慢をするのが大人、半ズボンで涼しそうにしているヤツは子供、と、うちの国の社会はそういう基準で動いている。
4. だから、日本の大人の男たちは、無駄な我慢をする。しかもその無駄な我慢を崇高な達成だと思っている。暑苦しいだけなのに。
5. 実はこの「やせ我慢」の文化は、はるか昔の武家の時代から連綿と続いている社会的な伝統であり、民族的なオブセッションでもある。城勤めのサムライは、何の役にも立たない、重くて邪魔なだけの日本刀という形骸化した武器様の工芸品を、大小二本、腰に差してして出仕することを「武士のたしなみ」としていた。なんという事大主義。なんというやせ我慢。
6. 以上の状況から、半ズボンで楽をしている大人は公式のビジネス社会に参加できない。竹光帯刀の武士が城内で蔑みの視線を浴びるみたいに。なんとなれば、わが国において「有能さ」とは、「衆に抜きん出ること」ではなくて、むしろ逆の、「周囲に同調する能力=突出しない能力」を意味しているからだ。
 以上は、記憶から再構成したダイジェストなので、細かい点で多少異同があるかもしれない。話の順序もこの通りではなかった可能性がある。でもまあ、大筋、こんな内容だった。   
 橋本氏の見解に、反発を抱く人もいることだろう。極論だ、とか。自虐史観だとか。しょせんは局外者の偏見じゃないかとかなんとか。でも、私は鵜呑みにしたのだな。なんと素晴らしい着眼であろうか、と、敬服脱帽いたしましたよ。ええ。(...)
『革命的半ズボン主義宣言』の最終的な結論は、タイトルが暗示している通り、「半ズボン姿で世間に対峙できる人間だけが本物の人間」である旨を宣言するところにある。」
 
 要約の当否は脇に置いて、小田嶋さんが橋本治から何を受け継いだのかはこの引用からだけで明らかだと思う。彼は「半ズボン姿で世間に対峙できる人間」になろうとしたのである。そして、それは、小田嶋隆一人だけが、制服姿の高校生の中で(比喩的な意味で)「半ズボン姿」であったことが原体験としてあったからだと思う。そのときの孤立感と、「でも、半ズボンをオレは脱がないよ」という決心の堅さは僕にはよくわかる。とてもよくわかる。
 だから、彼の異端性や孤立は「半ズボンをはいた少年」が、鬱陶しい制服や背広を着込んで眉根に皺を寄せて「やせ我慢」しているかつての同級生たちに向かって、「君たち何やってんのさ?」と問いかけているのに似ている。彼が世の中の理不尽や仕組みやナンセンスなルールについて書く時に、それはかつての同級生たちに向かって「その服、苦しくないか?」と気づかっているのに似ている。せせら笑っているわけでもないし、罵倒しているわけでもない。そうではなくて、彼らが身にまとっているものの嘘くささや息苦しさの所以を説き聞かせて、「そんなもの脱いで、こっちへおいでよ」と呼びかけているのである。
 だから、彼の書くものは鋭い批評性と親切心が同居する不思議な味わいのものになった。この「オープンマインデッドな少数派」という骨法を、小田嶋さんは橋本治さんからたぶん受け継いだのだと僕は思う。
 彼の衣鉢を継ぐ書き手がこのあと登場するかどうかはまだ分からない。でも、小田嶋隆の仕事は日本文学史の中に一筋の道統として受け継がれてゆくべきものだと僕は思っている。
 小田嶋さん、長い間ほんとうにありがとう。