2022年の10大ニュース

2023-01-01 dimanche

毎年恒例、年末に「10大ニュース」を書き留めている。60歳過ぎると、だんだんどの年に何があったのか不分明になってくるので、その年のことをあとから思い出すためには、必要な作業である。2022年は何があったのかしら。

(1)コロナ禍

2020年1月からもう丸3年になろうとしているパンデミックのせいで、2022年も凱風館の稽古は何度も休止することになった。1月2月は感染拡大のためほぼ全期間休館。5月は私がコロナに罹って休館。11月にも感染者が出て稽古が中止になった。秋からはそろそろ平常運転になるかなと思っていたら、また年末に感染者が増加して年末の諸行事がいくつも中止になった。もう慣れたと言えば慣れた。稽古できるときに稽古する。できないときは諦めて、それぞれが別の稽古法を工夫する。そういう涼しい気持ちで受け流すことにした。

(2)膝を傷めた

もともと右膝は三宅安道先生の「神の手」で治して頂くまで、ずいぶん悪くなっていた。池上六朗先生のお導きで三宅先生に治療して頂いたら快癒して、以後15年近く無事だった。それが2019年秋に大風邪をひいて、大きく体調を崩したときに古傷の膝も痛み出した。それからもだましだまし使っていたが、2022年の1月2月に稽古休止して、家にじっとして朝から晩まで書きものをしていたら、筋肉が固くなって痛み出した。加齢による半月板と軟骨の劣化という診たてなので、「奇跡の回復」は見込めそうもない。でも、三宅将喜先生の三軸修正法治療と新城先生の投薬によるペインコントロールで、稽古は続けている。

(3)三宅先生が亡くなった

その三宅安道先生が1月21日に亡くなった。主治医としてずっと診て頂いていた三宅先生がいなくなって、毎週先生に身体をほぐしてもらいながらあの楽しいお話を聴く楽しみを失ったことの喪失感はとても言葉では尽くせない。さいわい、ご長男の将喜君が箕面で「三宅接骨院」を開業しているので、そこに通院することにした。将喜君はお父さんと声がそっくりで、身体に触れる時の手触りもそっくりなので、目をつぶって施術を受けていると、将喜君を通して、三宅安道先生にも治してもらっているような不思議な気分になる。

(4)岳父が亡くなった

三宅先生が亡くなる前日に、岳父高橋信藏が亡くなった。だから、この週は通夜と葬儀が四日続いたのである。岳父の葬儀には釈徹宗先生に法要をお願いした。快く引き受けてくれて、寒い中、ていねいな法事と心に沁みる法話をしてくださった。高徳の僧に供養をしていただくことがどれほど遺族の救いになるのかということも身に浸みた。

(5)小田嶋隆さんが亡くなった

十大ニュースのうちの三つまでが人の死である。6月24日に小田嶋さんが亡くなった。 これまでも繰り返しあちこちで書いてきたけれど、小田嶋隆は80年代からの私の長年の「アイドル」であり、のちに『九条どうでしょう』の共著者を引き受けてくれたことがきっかけに友だちになった。それからいろいろな機会に平川克美君といっしょに遊んできた。平川君と鼎談もしたし、対談もしたし、小田嶋さんがMCをするテレビ番組にも出た。

何より箱根湯本での平川君との「温泉麻雀」の欠かせないメンバーだった。日曜夕方に集まり、麻雀を打ち、月曜も朝から麻雀を打つ。小田嶋さんは月曜午後にラジオの「たまむすび」に生出演するので、一度抜けて東京に行き、番組が終わるとまた箱根に戻って来て、卓を囲んだ。きびしく容赦のない打ち手だったけれど、それ以上にブラックなジョークを間断なく飛ばしてくれて、私たちは腹を抱えて笑い続けた。入退院を繰り返していた時期も、体調が戻ったときには必ず来てくれた。あの至福の時間がもう戻ってこないと思うと切ない。

小田嶋さんと最後に会ったのは6月13日、亡くなる11日前だった。平川君から電話で「小田嶋さん、今度はだいぶ悪いらしい」と知らされた。暑い日に二人で赤羽の小田嶋さんのお宅を訪れた。美香子さんと四人で、ベッドに臥せっていた小田嶋さんとおしゃべりをした。はじめは息をするのも苦し気だった小田嶋さんが、「こういう時になると、一番したいことは誰かとバカ話をすることなんですよね」と言った。じゃあ、リクエストにお応えしようということで、平川君といっしょに気楽なおしゃべりをした。それは文学と言語の話だった。小田嶋さんが橋本治の『革命的半ズボン主義宣言』がいかにすばらしい著作であるかを語り出して、その時にはじめて小田嶋さんが橋本さんに深い敬意を抱いていたことを知った。うかつにも僕はそれまで小田嶋さんと橋本さんのことについて話したことがなかったのである。おしゃべりは1時間ほど続いた。

そのときの会話はそのまま隣町珈琲が出している同人誌の『mal"』の第三号の「小田嶋隆追悼号」に採録されている。小田嶋さんの言葉はたいへんに明晰で、読んだ人はこれが死を前にした人の言葉だとは信じないだろう。また一人たいせつな人を失ってしまった。

小田嶋さんの追悼記事はいくつか書いた。『mal"』にも少し長いものを書いた。これはある媒体に求められて書いたものである。http://blog.tatsuru.com/2023/01/01_1823.html

(6)『レヴィナスの時間論』を書き上げた

『レヴィナスと愛の現象学』『他者と死者』に続いて『レヴィナスの時間論』を書き上げて、これで「レヴィナス三部作」という私のライフワークが完了した。三作とも研究論文ではなく、泉下のレヴィナス先生に捧げる不肖の弟子からの「手向けの花」である。墓に手向けられた花については、それがその辺で摘んで来たみすぼらしい野草であっても、その志を笑う人はいない。私のレヴィナス論はどれもその「野草」のようなものである。この本をきっかけにして「じゃあ、レヴィナスを読んでみようか」という人が一人でも出てくれれば、私はそれで十分報われる。

三作とも装丁は畏友山本浩二が描いてくれた。三冊の単行本を並べると、「山本浩二作品集」として、彼の十年以上にわたる作風の変化を一望することができる。長きにわたって私の仕事を支えてくれた山本浩二画伯にこの場を借りて心からの感謝を表したい。単行本の「あとがき」を書いたときには6年にわたる連載が終わって脱力して、頭がぼんやりしていて山本君への謝辞を書き落としてしまったので、改めて感謝の気持ちをここに記しておく。

(7)『若マル』が終わった

石川康宏先生との共著の往復書簡『若者よマルクスを読もう』が最終巻「資本論」を迎えた。14年にわたって書き続けてきたシリーズである。日本の中高生に向かって、その袖をひっぱって、「お願いだからマルクスを読んで」と懇請するという趣旨のもので、学術的厳密性とか理論的先端性とかを期されても困る、ただの「入門書」であるけれども、さいわい多くの読者を得ることができた。とくに中国語訳版が中国共産党中央紀律委員会から、共産党幹部党員への推薦図書に指定されたことには驚いた。

この本では石川さんが「きちんとしたマルクスの祖述と解説」を担当し、私が「マルクスのかっこいいフレーズについて、その論理の疾走力や修辞のみごとさを讃える」という分業体制で書かれている。たぶん中国共産党の党員の中にもマルクスをちゃんと読んでいない人が増えてきたのだろう(9000万人もいるんだから)。その人たちにいまさら共産党が「いきなり始めるマルクス主義」という本を頒布するわけにもゆかない。だから、僕たちの「日本の中高生向きマルクス入門」がそのニーズに偶然に合ったということではないかと思う。

この本は韓国語訳も出た。韓国ではいまも公式にはマルクス主義を賛美することは法律で禁じられている。だから、マルクス主義について知ろうとすると翻訳に頼るしかないという事情がそこから知れる。

マルクスの受容の仕方は世界それぞれの社会でさまざまだが、「非政治的な読み方」(つまり、レヴィ=ストロースが言うように「マルクスを読むと、頭にキックが入る」ので、仕事を始める前にまずマルクスを読むというような読み方)が許容されているのは、アジアではたぶん日本だけなのだと思う。

白井聡さんや斎藤幸平さんのような若くて卓越したマルクス主義者が登場してきたことで、僕たちの『若マル』仕事はその歴史的使命を終えたように思う。でも、これからも日本の中高生がこの本を手に取ってくれるとうれしい。 14年間お付き合いくださった石川先生の友情と、遅筆な二人を黙って見守っていてくれたかもがわ出版の松竹伸幸さんの雅量にも心から感謝したい。

(8)豊岡で授業をした

平田オリザさんが学長の豊岡市にある芸術文化観光専門職大学の客員教授を拝命したので、夏に集中講義に行って来た。僕の担当は言語表現論。隔年開講で、高橋源一郎さんと僕が交替で授業をすることになっている。去年担当した高橋さんに「何教えたの? どんな学生だった?」とメールで訊いたら授業のやり方と「すごく食いつきのよい学生たちで楽しかった」というご返事を頂いた。高橋さんが楽しく授業できたのなら問題ない。7月27日~29日にひさしぶりに若い学生たち(8割が女子)を相手におしゃべりをして、毎日ショートエッセイを書いてもらった。

女学院卒業生で、私が在職中に総合文化学科の博士課程ができたとき最初に博士号を取った井原麗奈さんがさいわい同僚で、フルアテンダンスをしてくれた。夜は同じ時期に集中講義に来ていた水野和夫先生や平田学長もご一緒して美味しいご飯を食べて、美味しいお酒を飲んで、お話を聴けて、まことに愉快で充実した集中講義だった。

(9)盛岡で講演をした

講演はあちこちで年間30回くらいやっているのだけれど、これは特別。盛岡在住の小笠原康人・純子ご夫妻からの招聘である。お二人とは何年か前に羽黒の星野文紘先達の宿坊大聖坊での宴会でお会いした。先達に鶴岡に呼ばれておしゃべりをするようになったのは、もう10年以上前である。 もとはと言えば、中沢新一さんの明治大学野生の科学研究所のキックオフイベントに平川君と僕が呼ばれて、中沢さんと鼎談するという企画があり、そのあとの研究所オープニングパーティの席で、星野先達と山伏の加藤丈晴さんに声をかけられたのである。長い話になるけれど、面白いから書いておく。

先達に「内田さんは山形に来ることなんかありますかね」と訊かれて、「毎年行ってます。鶴岡に内田家の墓がありますから」とお答えして、そこから「じゃあ、次に鶴岡に来るときに羽黒に来てください」と先達に誘われて、それから毎年羽黒に行くことになったのである。 先達と対談したり、黒川能のお家元をまじえて鼎談したり、合気道を教えたり、先達の企画でいろいろやった。毎回、イベントが終わると大聖坊に山伏たちや、鶴岡の若い地方移住者たちが集まって宴会をした。その中に盛岡から来た小笠原夫妻がいたのである。彼らは山伏でも山形県民でもなく、私の読者だった。

最初は人が多すぎて、彼らとゆっくり話す時間もなかったのだけれど、毎年おいでになるので、「あ、またいらっしゃったんですね」と話し合うようになって、ある年に小笠原君が意を決して「盛岡で僕たち読書会をやっているんですけれど、その100回か150回の記念に盛岡に来てくれませんか」と頼んで来た。読者が主宰しているグループに招かれるというのはこれが二度目である(最初のときは福岡で、そのときの講演をもとにして『他者と死者』を書くことになった)。

何人かの市民だけで講演会を開催するというのはなかなかできないことである。その志を多として11月19日~20日に盛岡に行って、講演を一つして、翌日の読書会にゲスト参加してきた。美味しい冷麺を食べて、美味しいイタリアンを食べて、談論風発して、たいへん楽しい旅だった。小笠原さんご夫妻の誠意と情熱に敬意を表したい。お疲れさまでした。

(10)韓国を三年ぶりに訪れた

11年前から韓国で講演旅行を続けている。2020年、21年はコロナで渡航がむずかしくてリモートでの講演になったが、今年は渡航の条件がいくぶんか緩和されたので、韓国で講演旅行をすることになった。 最初は10月の末に行くはずだった。ところが検疫関係で準備する書類がいくつもあって、そのうちのK-ETAという電子ビザの申請が通っていないことが出発前日に判明した。もう荷造りも終わって、最後に必要書類の点検をしているところで、電子ビザのステータスが「Not found」になっていた。もっと早くチェックしていたら、再申請できたのだが、仕事に追われて、もう申請期限の24時間を切っていた。  朴東燮先生に連絡して、事情を話して、とりあえず翌日の大学での講演はリモートにしてもらった。もともと半分対面、半分オンラインという形式だったので、ただパソコンの前に座ればつながる(便利になったものである)。

でも、対面オーディエンスの中には釜山からソウルまで来た人もいたそうで、そういう方にはほんとうに申し訳ないことをした。残り二つの講演は地方自治体の招聘なので、リモートではなく「仕切り直し」になった。

11月30日~12月2日の二泊三日の強行軍で、ソウルで新聞のインタビューと記者たちとの懇談会、清州市で講演を二つ。今回も朴先生がフルアテンダンス。仁川空港には、懐かしいもう一人の朴先生(最初に凱風館に来てくれたお二人のうちの一人)もお迎えに来てくださった。

まずは文化日報の朴記者のロングインタビュー。日本語の上手な記者だったので、面白い仕事だった。そのあと、ソウルの各新聞社の記者7人(うち1人だけが日本の新聞社の男性記者で、あとの6人は韓国の女性記者たち)と懇親会。とても面白かった。そのときのことはAERAに書いた。http://blog.tatsuru.com/2022/12/12_1120.html

翌日は清州市に移動して教育委員会主催の講演。最終日はもっと田舎の小さな町の公民館のようなところで地方の人口減についてという演題を求められての講演をした。どちらも聴衆はたいへん熱心で、終わったあとに次々と個人的な質問をされた。教員の方たちからは『街場の教育論』や『先生はえらい』へのサインを求められるケースが多かった。大量の付箋が貼り付けられ、手垢で頁がめくれあがった本を見ると、熱心な読者を得た書物に対して、「こんなに読まれてよかったね」という気持ちになる。

朴東燮先生は1月には韓国の読者たちを引き連れて、凱風館に遊びに来るそうである。お会いするのが楽しみである。

日韓の市民レベルでの交流は深い。外交レベルでの日韓の対立はそれぞれの政府がマヌーヴァー的に操作している「政治的工作」であることが実際に韓国の人たちと話すとよくわかる。この隣国と日本はあらゆるレベルで連携しなければならない。「東アジアの安定のためには日韓連携が何よりも優先します」と今回の韓国ツァーでも機会があるたびに語ってきた。多くの聴衆が深く頷いてくれた。この真情を私は信じる。

これでちょうど10になった。2023年はどんなニュースを書くことになるのだろう。