50歳からの1冊

2022-12-29 jeudi

 子どもの頃は「自分が生まれる前の時代」は単なる漠然とした時間の広がりに過ぎなかった。昭和前期も大正も明治も幕末もひとしなみに「昔」というカテゴリーに括られていた。それが年を取るとだんだん「昔」が差別化されるようになる。自分が生まれる直前と、生まれる50年前と、生まれる100年前の違いが皮膚感覚的に感じることができるようになる。「昔」の解像度が上がるのである。
 それについて個人的な法則を思いついた。個人の感想であって一般性を要求する気はないが、「自分が生まれる前についての想像力の広がりは実年齢に相関する」というものである。わかりにくい言い方で済まない。
 要するに「十歳の子どもは自分が生まれる十年前まで、二十歳の人は自分が生まれる二十年前くらいまでの昔については、何となくどんな時代だったか想像がつく」ということである。 
 この法則を適用すると、50歳というのは生年の50年前(私が50歳の時なら1900年、明治33年)についてまでなら、その頃の人がどんなものを食べて、どんな服を着て、どんな家に住んで、どんなことを考えていたのか、何となく想像がつくということである。
 明治33年と言えば、義和団事件が勃発し、パリ万博でメトロが開通し、夏目漱石が英国留学に発ち、フロイトが『夢判断』を出版した年である。義和団事件について、私は柴五郎の書いたものを読んだし、チャールトン・ヘストンと伊丹十三が出た『北京の55日』も観た。パリで乗ったメトロの駅の多くはパリ万博時と同じたたずまいを留めていた。ロンドンの漱石の屈託のことはたっぷり漱石に教えてもらった。『夢判断』は学生時代にノートを取りながら読んだ。そうやって書き出すと、50歳の時は生まれる50年前までは「守備範囲」だということになる。
 前置きが長くなったが、「50歳になったので1冊読むべき本をを推奨して欲しい」と頼まれたら、「50歳になったせいで守備範囲に入った本」、つまりその時点から100年前に書かれた本の中から選んだらよいのではないかと思う。今年は2022年であるから、1922年あたりに書かれた本が「50歳になったら読む本」としては手ごろではあるまいか。
 奇しくも1922年は森鷗外の没年に当たる。もし、鷗外のものをこれまであまり読む機会がない方がいたら、これを奇貨として鷗外を体系的にお読みになることをお薦めしたい。『じいさんばあさん』『寒山拾得』『高瀬舟』などは短いからすぐ読める。『阿部一族』『興津弥五右衛門の遺書』も歴史小説だから面白く読める。『澁江抽斎』のような史伝はいささか難物であるけれども、現代日本人の国語力で十分に読めるはずである。
 その1年前の1921年はピョートル・クロポトキンの没年であるので、クロポトキンもちょっとフライングだけれど「守備範囲」に括り込んでもいい。さいわい『相互扶助論』も『ある革命家の思い出』も新版が出ていて手に入る。革命家というのがどういう人なのか、私たちはもうその相貌を知らない。そういう場合は、革命家自身の書いたものを読むに如くはない。クロポトキンを読むと、革命家というのがどれくらい陽気で楽観的な人であるかがよくわかる。こういう人と一緒なら官憲に追われたり、地下活動をしたりしてもずいぶん楽しいだろうなと思う。たしかにそうでなければ市民革命なんかできるはずがない。
 お役に立てたかどうかわからないけれど、こういう選書の仕方もあるということでご海容願いたい。(2022年2月21日)