『撤退論』まえがき

2022-12-29 jeudi

 みなさん、こんにちは。内田樹です。
 今回は「撤退」について寄稿をお願いして、論集を編みました。寄稿の依頼文を以下に掲げます。お読み頂ければ、論集の趣旨はご理解頂けると思います。

 みなさん、こんにちは。内田樹です。
 晶文社の安藤聡さん経由で、僕からの手紙が届くということは、「ああ、また寄稿依頼なんだな」とみなさんすぐに思われたと思います。ご賢察の通りです。今回は「撤退について」という主題での寄稿依頼です。まずは編集の趣旨についてご説明致します。

 先日、奈良県立大学の主催で「撤退学」をめぐるシンポジウムが開催されました。主催者側を代表して、同大の堀田新五郎先生が「今、撤退的知性の必要を問う」という問題提起をされて、それを承けて僕と水野和夫先生が講演をして、それから全体討議がありました。議論の内容について、ここでは詳細にはわたりませんが、日本のこれからの「撤退」はどういうものになるのかという問題を大学人が提起してくれたことを僕は頼もしく思いました。
というのも、国力が衰微し、手持ちの国民資源が目減りしてきている現在において「撤退」は喫緊の論件のはずであるにもかかわらず、多くの人々はこれを論じることを忌避しているように見えるからです。「撤退する日本はどうあるべきか」について衆知を集めて論じるという機運が高まっていない。
 今さまざまな指標が日本の国力が低下していることを示しています。一国の国力が向上したり低下したりするのは「よくあること」です。歴史を顧みれば少しも珍しいことではありません。ローマ帝国もモンゴル帝国も大英帝国も消長がありました。別に驚くこともないし、怒ったり、悲しんだりすることでもない。事実として粛々と受け止めるしかない。
 でも、「国力が低下しているので、これにどう対処したらよいのか」を議論することそのものを忌避するというのは「よくあること」ではありません。それは異常です。
 病気になるのは「よくあること」です。病気になったら、その原因や症状や治療法を考えればよい。でも、病気になったのに「それについては話題にしたくない」というのは異常です。そんなことをしたら重篤化するばかりです。今の日本はそれに近いように見えます。
今の日本政府部内には「国力低下の現状をモニターし、その原因を探り、効果的な対策を起案するためのセンター」が存在しません。個別的には、少子化をどうする、どうやって経済成長させる、どうやって軍事力を高めるかといった「前向きの」政策議論はなされていますが、全体的趨勢としての国力の衰微の現状と未来を「総合的・俯瞰的」に検討する部局が存在しません。
 僕が「撤退」と言っているのは、具体的には、この国力衰微の現実に適切に対応するということです。痩せて腹回りがへこんだらベルトのボタン穴を一つずらすとか、寒気がするので厚着するとか、そういう種類の、ごく非情緒的で、計量的な問題です。にもかかわらず、そのことが制度的に忌避されている。どうしてなんでしょう。

「撤退」を議するセンターが存在しない理由はいくつか考えられます。
 第一の理由は「日本の国力は別に衰微などしていない。日本のシステムは順調に機能しており、補正や改良の余地はない」という考え方に固執している人たちが国政を担当しているということです。
 システムを補正し改良するということはシステムに瑕疵があったということを認めることからしか始まりません。でも、現在のわが国の為政者たちは「失政を絶対に認めないという」立場をこれまでかたくなに守り抜いてきました。そして、「誤りを決して認めない」という態度を取り続けることで長期政権を保ってきた。「決して失敗を認めないこと」が成功体験として記憶されている。だから、成功体験に固執する。
「撤退」をめぐる議論は、これまで採択されてきた政策の適否についての精密な点検なしには成り立ちません。どの政策がうまく行って、どの政策が失当だったか、それを吟味することなしには、議論は始まらない。でも、それは現在指導層を形成している人たちが「それだけは絶対にしたくない」ことなのです。
 第二の理由はもう少し複雑です。それは為政者たち自身も「日本はこれからどんどん衰微してゆく」ということは客観的事実としては認めており、その原因も理解しており、それに対する対策もすでに講じているのだけれども、そのプロセスを国民に対して開示する気がないということです。「撤退」問題はすでに政府部内では徹底的に検討されており、対策も決定されているのだけれど、その事実そのものが隠蔽されている。僕はこちらの方が可能性は高いと思っています。
 今の日本の為政者たちの知性と倫理性について、僕はあまり高い評点を与えることができません。でも、いくら何でも今の日本について「国力が増強しつつある」というような致命的な勘違いをするほど知的に不調であるとは思っておりません。それくらいのことは分かっているはずです。そして、その原因の相当部分が過去30年の失政に起因することもわかっている。喫緊の政治的課題が「目減りしつつある国民的資源を誰にどう分配するか?」ということであることもわかっている。
 ですから、当然にも自分たちなりの「撤退戦略」をすでに構想している。それくらいの知恵がなければ、政権は担当できません。でも、それについて公的な場面で話題にする気はない。というのは、それが国民資源のかなりアンフェアな分配に基づく計画だからです。僕はそう思います。
 彼ら指導層のこれまで思考と行動のパターンを考えると、それは新自由主義的な「選択と集中」をさらに徹底したところの「強者にすべての資源を集中し、弱者は見捨てる」というものになるのだろうと思います。それ以外の解のために知恵を絞るほどの倫理性を僕は日本の指導層に期待しておりません。
 でも、「強者が総取りする」という「撤退」戦略を、パンデミックとインフレと貧困で人々が苦しんでいる状況下で公開したら大多数の国民の怒りを買うことは間違いありません。さすがに大多数の有権者の怒りを買ったら政権の維持が難しい。だから、それについては腹に納めて、黙っている。
 いかなる国民的議論も経ずに、政府部内では「撤退計画」はすでに起案され、着々と実施されている、僕はそう考えています。そして、ある日「ポイント・オブ・ノーリターン」を越えたところで、つまりもう政府主導の「撤退計画」以外の選択肢を採る可能性が失われた時点で、はじめて「日本は沈みつつありますが、生き延びる手立てはもうこれしかありません」という手の内を明かす。そういうシナリオができていると僕は考えています。それがどういう「シナリオ」であるかどうか、それは別稿で書きたいと思います。

 僕の書き方がいささか悲観的過ぎる、日本の衰え方をいささか誇大に表現しているのではないかという疑念を持つ方がおられると思います。でも、日本の未来について楽観できる余地はほんとうにないのです。
 国力衰退にはさまざまな指標があります。でも、もっとも客観性が高く、誤差が少ない指標は人口動態です。
 わが国の総人口は2004年をピークとして、今後減り続け、21世紀の終わりには、明治四十年代の日露戦争前後の水準にまで減少することが予測されています。人口推移の図表を見ると、1900年から2000年までに増えたのと同じだけが2100年までに減るので、人口推移グラフはきれいな左右対称の山形をなしています。具体的に言うと、2100年の人口予測は高位推計で6470万人、中位推計で4771万人、低位推計では3770万人です。現在が1億2千600万人ですから、中位推計でも今から80年の間に7000万人以上減る勘定です。年間90万人。毎年県が一つずつなくなるというペースです。
 その減少分は海外からの移民で補えばいいというご意見もあるかも知れません。でも、今日本在住の外国人はわずか290万人です。パンデミックのせいで外国からの移住者数は激減しています。それに外国人技能実習生への暴力事件や入管での人権無視事案で露呈されたように、日本社会は「異邦人」の受け入れ能力が悲しいほど低い。「多様性と包摂」という看板だけは掲げていますけれども、今の日本人は人種・国籍・言語・宗教・生活文化を異にする「他者」たちと共生できるほどの市民的成熟には達していませんし、そもそもそのような市民的成熟が緊急に必要であるということについての国民的合意さえない。そんな国が人口減を移民で補うことができるはずがありません。
 人口減(それと高齢化)が日本の国力の衰微の最大の原因です。これは小手先の政策ではどうしようもない。初期条件として受け入れるしかない。
 でも、同じことはこれから後、多くの先進国で起きます。日本に続いて2027年には中国の人口がピークアウトして、以後年間500万人ペースでの人口減になります。その規模と速度は日本の比ではありません。中国の中央年齢は今37.4歳でアメリカと同じですが、2040年には今の日本のレベル(48歳)に達します。韓国も2019年の5165万人をピークに減少に転じました。高齢者比率も2065年には46%に達し、日本を抜いてOECD加盟国の首位の老人国になります。世界中どこでも事情はそれほど変わらないのです。
 でも、日本が世界で最も早くこのフェーズに入る。そうであれば、「子どもが生まれず、老人ばかりの国」において人々がそれでもそれなりに豊かで幸福に暮らせるためにどういう制度を設計すべきかについて日本は世界に対してモデルを提示する義務がある。僕はそう思います。他のことはともかく、この「撤退」戦略においてくらいは「日本はこうやって撤退局面でソフトランディングに成功して、被害を最小化した」ということを世界にお伝えしたい。でも、今のままでしたら、「日本はこうやって撤退に失敗した」という「やってはいけない見本」を提示するということでしか世界の役に立たないということになりそうです。

 寄稿依頼にしては長くなり過ぎましたので、もう終わりにします。以上のような現状認識を踏まえて皆さんにご自由に「撤退」を論じて頂きたいと思います。
 もちろん、現状認識が僕とは違うという方もおられると思います。「撤退など必要ない」という論ももちろん歓迎です。寄稿者全員ができるだけ多様な視点から、独自の「ものさし」で、この問題を縦横に論じてくださることが読者に裨益(ひえき)するところが最も多いはずだからです。
 寄稿を依頼したのはお忙しい方々ばかりですから、「ちょっと時間的に無理」ということもあるでしょうし、そもそも編集の趣旨が意に添わないということもあるでしょうから「書けません」という場合はご遠慮なくお断りくださって結構です。
 長い手紙を最後までお読みくださって、ありがとうございました。みなさまのご協力を拝してお願い申し上げます。

2021年10月
内田樹

 これで本書の趣旨をご理解頂くには十分だと思いますけれど、一言だけ付け加えておきます。
「リトリート」という言葉を僕は大学在職中に時々耳にしました。それは「退修会」と訳されていました。たしかに英和辞典でretreatを引くと、「静養」や「静思」という訳語がみつかります。日常から離れ、落ち着いた環境の中で、霊的な養いの時を持つことだそうです(知らなかった)。僕のいたミッションスクールでは全教職員が集まり、チャプレンの祈りの後に分科会にわかれて、一日かけて「私たちの大学は何のために存在するのか?」という建学の理念の検証するのが「退修会」でした。
 この本で僕たちはこれから「撤退」についてさまざまな論点を提出します。そして、僕からのささやかな願いは、その作業そのものを「静思」として営めたらいいということです。つまり、「僕たちの暮らすこの共同体は何のために存在するのか?」という根源的な問いに向き合いつつ、ということです。そういう根源的な問いをめぐる思索は、あまり論争的になったり、声を荒立てたりすることなしに、できれば「静思」という仕方で行う方がいいと思うのです。難しいとは思いますが。
 以下に収録した論考はどれも寄稿者たちが力を入れて書いてくださったものですから、豊かな知見に溢れていますし、一読して胸を衝かれるような言葉に出会うこともあると思いますが、読者のみなさんはできれば「静思」的な構えで、一つ一つゆっくり読んで欲しいと思います。一人の論考を読み終えたら、すぐには次に進まずに、珈琲を一杯飲むなり、散歩をするなり、ちょっとしたインターバルを置いて、言葉がみなさんの胸のうちに「着床」する時間をとってくれたらうれしいです。どうぞよろしくお願い致します。

2022年1月
内田樹