これは『週刊金曜日』に6月8日に寄稿したもの。
為政者が明らかに自分たちに不利益をもたらす政策を実施している時に、それにもかかわらず、その為政者を支持する人たちがいる。彼らはいったい何を考えているのだろう。
多くの知識人や言論人はそういう人たちは「情報が不足している」のか「情報が歪められて伝えられている」ので、「啓蒙」努力によって政治的態度を改善することができるというふう考えている。だが、ほんとうにそうなのだろうか。私は最近だんだん懐疑的になってきている。
自分たちを苦しめる政党を支持している人たちは、その事実をたぶん(ぼんやりとではあれ)理解しているのだという気がする。どういう政策が自分たちに利益をもたらし、どういう政策が不利益をもたらすことになるかくらいのことはわかるはずである。外交や安全保障や経済政策については適否の判断が下せないにしても、賃金や税金や社会保障や教育費のことなら自分にとって何が有利かくらいはわかるはずである。それがわかった上で、自分たちをさらに苦しめる政党に投票している。そのような倒錯が国民的規模に行われていると考えないと現代日本の、あるいはロシアや中国の政治状況は説明が難しい。
『撤退論』という本を一緒に書いた政治学者の白井聡さんは、その論考の中でアメリカのダートマス大学のチームが行った日本における政党支持と政策支持の「齟齬」についての研究を紹介してくれた。直近の衆院選の選挙結果分析なのだが、それによると自民党が圧勝したこの選挙で、自民党の政策は他党に比べて高い支持を得ていない。政策別の支持を見ると、自民党は原発・エネルギー政策では最下位、経済政策とジェンダー政策はワースト2、コロナ対策と外交安保で僅差で首位。
では、なぜ政策が支持されていないにもかかわらず、自民党は勝ち続けるのか。そこで研究チームは政党名を示さないで政策の良否を判断してもらった場合と、政党名を示した場合を比較したのである。驚くべき結果が示された。自民党以外の政党の政策であっても、「自民党の政策」だというラベルを貼ると支持率が跳ね上がるのである。日米安保廃棄をめざす共産党の外交安保政策は非常に支持率が低いが、これも「自民党の政策」として提示されると一気に肯定的に評価される。つまり、有権者はどの政党がどういう政策を掲げているかを投票行動の基準にしているのではなく、「どの政党が権力の座にあるのか」を基準にして投票行動をしているのである。
これは「最も多くの得票を集めた政党の政策を正しいとみなす」というルールをすでに多くの有権者たちが深く内面化していることを示している。有権者たちは自分に利益をもたらす政策ではなく、「正しい政策」の支持者でありたいのである。だから、政策の適否とはかかわりなく「どこの政党が勝ちそうか?」が最優先の関心事になる。その政党に投票していれば、彼らは「正しい政治的選択をした」と自分を納得させられる。
選挙における政党の得票の多寡と、政党が掲げる公約の適否の間には相関がない。考えれば当たり前のことである。歴史を徴すれば、圧倒的な支持を得た政党が国を亡ぼし、正しい政策を掲げていた政党が一顧だにされずに消えた...というような事例は枚挙にいとまがない。
だが、いまの日本の有権者の多くは得票数と政策の正否の間には相関があると信じている。「選挙に勝った政党は『正しい政策』を掲げたから勝ったのであり、負けた政党は『間違った政策』を掲げたから負けた」という命題がまかり通っている。現に、政治家たちだけでなく、評論家たちも、ジャーナリストも口を揃えてこの嘘を飽きずに繰り返している。野党指導者までもが「選挙に負けたのは政策が間違っていたからだ」と思い込んで、勝った政党に政策的にすり寄ろうとする。残念ながら、諸君が選挙に負けたのは政策が不適切だったからではない。「選挙に勝てそうもなかったから」負けたのである。
しつこくもう一度繰り返すが、選挙に勝った政党は政策が正しいから勝ったのではない。「勝ちそうな政党」だったから勝ったのである。選挙に負けた政党は政策が間違っていたから負けたのではない。「負けそう」だから負けたのである。
有権者たちは「勝ち馬に乗る」ことを最優先して投票行動を行っている。その「馬」がいったいどこに国民を連れてゆくことになるのかには彼らはあまり興味がない。自分が投票した政党が勝って、政権の座を占めると、投票した人々はまるで自分がこの国の支配者であるような気分になれる。実際には支配され、管理され、収奪されている側にいるのだが、想像的には「支配し、管理し、収奪している側」に身を置いている。その幻想的な多幸感と全能感を求めて、人々は「権力者にすり寄る」のである。
次の参院選では誰もが「野党はぼろ負けする」と予測している。だから、たぶん野党はぼろ負けするだろうと私も思う。みんながそう予測しているからである。「負けそうな政党」があらかじめ開示されている時に「勝ち馬に乗る」ことを投票行動の基準とする有権者が「負けそうな政党」に投票するということは原理的にあり得ない。
2009年に政権交代があったのは「民主党が勝ちそう」だとメディアが囃し立てたからである。だから、民主党の政策をよく知らない有権者たちもが「勝ちそうな政党に投票する」という、それまで自民党に入れてきたのと同じ理由で民主党に投票したのである。それだけの話である。逆に、2012年の選挙の時は「民主党は負けそうだ」とメディアが揃って予測したので、有権者は「負けそうな政党」に自分の一票を入れることを回避したのである。
大阪都構想が住民投票で僅差で退けられた時、当時の橋下徹大阪市長が記者会見で敗因を問われたときに「都構想が間違っていたからでしょう」と述べたことがあった。聴いて驚嘆した。投票結果はそこで問われた政策の適否とは関係がない。正しい政策が否決され、間違った政策が採択されるということはいくらでもある。政策そのものの適否と採否の投票結果は無関係である。それはただ「有権者の過半がその政策の実施を望まなかった」という以上の意味を持たない。にもかかわらず橋下市長は自分が推進してきた政策を「間違っていたから否決された」と総括した。これはきわめて危険な言明だと私は思った。それは逆から言えば「正しい政策を掲げた政党は選挙に勝つ」という偽命題に正当性を与えることになるからである。「政権党は正しい政策を掲げたせいでその座にある」という偽命題に正当性を与えることになるからである。それを認めてしまったら、もう私たちは権力者に抵抗する論理的根拠を失ってしまう。だから、「正しい」というのは選挙については使ってはならない形容詞なのである。選挙というのは、勝った政党の掲げた政策の方が優先的に実施される可能性が高いというただ、それだけのものである。それ以上の意味を選挙に与えてはならない。
「正しい政策を選べ」と求められていると思うからそれが分からない有権者は棄権する。だから、これほど棄権率が高いのである。有権者は「正しい」ことを求められていない。「自分が暮らしやすい社会」を想像することを求められているのである。それほど難しい仕事だろうか。
(2022-06-19 13:11)