中日新聞に連載している「視座」に送った原稿を再録。
参院選が近づいたせいで周りが騒然としてきた。何人かの候補者たちから「推薦人」や「応援」を求められる。私は誰に頼まれても「いいですよ」とお答えすることにしている。そう聴いて「節操がない」と眉をひそめる方もいることだろう。でも、選挙というのはそれほど厳密なものであるべきではないと私は思っている。あの人にもあの人にも当選して欲しい。それがたとえ同じ選挙区で競合していても、そう思う。
私はどの候補者についても私の政治的意見との完全な一致を求めない。かなり違っていても構わない。「私が個人的に暮らしやすい社会を作ってくれるかどうか」を基準にして私は選挙に臨むことにしている。極端なことを言えば、権力者が「内田に発言機会を与えない」「著書を発禁にする」「投獄する」というような命令を下した時に身体を張って反対してくれそうな人であれば誰でもよい。
そもそも私にはどの政党の政策が「客観的に正しい」のかがわからない。外交や安全保障や経済について、私には政策の適否を判断できるほどの知識がない。知識経験豊かな専門家たちの意見が食い違うような論件について素人の私に判断がつくはずがない。
そういう場合には「正しい政策」の選択を諦める。代わりに「私にとって都合の良い政策」は何かを考える。「万人にとって正しい政策」や「科学的に正しい政策」を私は求めない。人間たちの営みは偶発的過ぎるし、世界の先行きは予見不能だからである。
それでも、歴史を振り返ると、どういう政策が国を亡ぼすことになるのかはだいたいわかる。それは「わが国の本来の姿に戻る」ことをめざす政策である。わが国が「こんなありさま」になっているのは外部から異物が混入してきて社会を汚染したせいである。だから、その異物を検出し、排除すれば社会は「原初の清浄と活力」を回復するであろうというタイプの言説である。
このタイプの妄想を信じた人たちによってこれまでたくさんの人が殺され、多くの価値あるものが破壊された。いまウクライナでロシアがしていることも、新疆ウイグルや香港で中国がしていることも、この「あるべき国の姿」幻想に駆動されているのだと私は思う。だから、これがいずれ両国の「亡国」の遠因になると私は思う。今は中ロどちらの国民も権力者に圧倒的な支持を与えているけれども、国民ひとりひとりが「わが国はいかにあるべきか?」よりも「これがほんとうに私の暮らしたい社会なのか?」と自問する習慣があれば、今あるような国にはなっていないはずである。
だから私は「わが国の本然の姿はどうあるべきなのか」を論じない。そんなことを論じてもろくなことにはならないからである。それよりは「これがほんとうに私の暮らしたい社会なのか?」を問うようにしている。私は基本的人権が尊重され、市民的自由が守られる社会で暮らしたい。それだけである。国が貧しくてもいい、軍事的強国でなくてもいい。金があり、力があり、隣国から畏怖されているが、権力者におもねる以外に国民に生きる手立てがないような国では暮らしたくない。だから、「私が暮らしやすい社会」にしてくれそうな人なら誰でも私は応援する。
(2022-06-19 13:05)