韓国の朴東燮先生が「内田樹研究」のために熱心に資料を集めている。読みたいものがあるのだけれど、韓国の図書館では見つからないということだったので筐底を漁ってみたら出てきた。2013年の4月に書いたものである。読み返してみたら、なかなか興味深い内容であった。朴先生に送るついでにブログにも上げておくことにした。
23年間、神戸女学院大学というミッションスクールで教師をしていた。それまでキリスト教との接触はほとんどなかったが、在職中はチャプレンと語らい、礼拝に出て、ときには奨励で聖書を論じた。ユダヤ教哲学を専門にしていたので、ノン・クリスチャンではあったが、『聖書』は学生時代から繰り返し読んでいた。
私が研究していたのはエマニュエル・レヴィナスというフランスのユダヤ人哲学者である。リトアニアに生まれ、フランスとドイツで哲学を学び、ホロコーストを生き延び、タルムード解釈学を相伝され、その学知によって崩壊寸前だったフランスのユダヤ人共同体の精神的導師となった人物である。
あるきっかけでこの哲学者を「師」と仰ぐことに決め、この人のものの考え方を理解しようとつとめているうちに、私は一神教信仰の基本的な考え方を学んだ。
その一方で私は40年ほど前から合気道という武道を修業してきた。東京にいたころに多田宏先生に就いて学び、神戸では、大学に合気道部を創部し、退職後の今は1階が道場2階が自宅という建物を建てて、稽古に明け暮れている。
仏文の院生・助手時代は、昼間はレヴィナスを翻訳し、夕方からは合気道の稽古に通うという判で捺したようなルーティンを10年以上続けていた。このときはユダヤ教哲学と武道の間にどういう内的なつながりがあるのかよくわからなかった。先生たちからは「そんな時間があったら研究をしろ」とよく叱られた。でも、止められなかった。自分が知的に探求していることと、身体が感覚的に探求していることが「同じもの」だという直感がしたからである。ただ、どういうふうに「同じ」であるのかはそのときにはまだ言葉にできなかった。
無宗教の公立校からミッションスクールに移ってきて、ここは武道家として居心地がよい場だと感じた。それはウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計した煉瓦造りの重厚な建物で暮らし、朝夕パイプオルガンや賛美歌の音楽に身をひたしていたことと深い関係があったと思う。
私の師である多田先生は久しくイタリアで合気道を指導されてきたが、つねづね「合気道を教えるのはイタリアの方がずっとやさしい。彼らは信仰を持っているから、眼に見えないもの、耳に聞こえないものがこの世にはあることを素直に信じる。日本人の方がその点ではずっと頑なだ」と言われていた。その言葉がずっと記憶に残っていた。
武道修業も初歩のうちはただ手足を運動的に動かしているだけである。それも愉しいのだが、やがて身体感覚が敏感になってくると、数値的・外形的には考量不能のシグナルがしだいに感知できるようになる。「気配」とか「気の起こり」がわかってくる。さらに修練が進むと「機」というものがわかってくる。
「機」というのは「石火の機」とか「啐啄の機」という言葉から知られるように、入力と出力が同機することをいう。右手と左手が拍手するときに、「右手が左手を探す」とか「左手が右手を受け止める」というようなことは起こらない。右手と左手は互いにためらいなくまっすぐに出会いの点に向かって進む。武道的な斬り込みと斬り返しでも同じことが起こる。これは反応速度が速いとか、動体視力がよいとか、「先手を取る」とかいうこととは違うレベルの話である。外界と内面、対象と主体という二元論的なもののとらえかたそのものが失効する境位があるという話である。
私たちはふだん「ここまでは現実で、ここから先(たとえば夢や幻覚)は非現実」というデジタルな境界線を守って生きている。「自分の身体は制御可能だが、他者の身体や心は遠隔制御することはできない」と信じている。だが、武道では、練度があるレベルに達するとそういう因習的な内外や主客の境目がしだいにあいまいになってくる。自他のボーダーを越える「出入り」が可能になってくる。
この「境界線があいまいになる感覚」と信仰には深い関係があると私は思う。多田先生はおそらくそのことを指摘されたのだと思う。眼に見えないもの、耳に聞こえないもの、にもかかわらずリアルに「切迫」してくるものがあるという実感の上に信仰は基礎づけられている。人間の五感に感知できるものだけが存在するもののすべてで、感知できないものは存在しないというような断定の上に宗教は絶対に成立しない。あらゆる信仰の基礎には、この「感知できないものの切迫」という経験がある。
初詣のときに、あまり信仰心があるとも見えない人々が一心に手を合わせている光景にぶつかる。おそらく心の中で「家内安全」とか「学業成就」とかいう実利的な願いをしているのだろう。だが、見ていると、そのような祈りの言葉を心の中で何度か繰り返すのに要する以上の時間彼らは黙想している。何をしているのか。
彼らは何かが触れてくるのを待っているのだと私は思う。息をひそめて、耳を澄まして、皮膚感覚を敏感にして、「自分宛てのメッセージ」がどこかから届くのではないかと待っている。そういう参拝をこれまで何百回何千回も繰り返してきて、過去に一度だって「メッセージ」が到来したことなどなかったにもかかわらず、人は祈るときに「耳を澄まして待つ」という構えを取らずにはいられない。「何かが到来するのを待つ」という備え抜きに人は「祈る」ことができない。
私が研究したレヴィナスという人は先の大戦で応召したのち、捕虜となり、捕虜収容所に終戦まで収監された。戦争が終わってみると、リトアニアにいた親族のほとんどはアウシュヴィッツで殺されていた。帰化した第二の祖国フランスのユダヤ人共同体は崩壊寸前だった。
若いユダヤ人たちは父祖伝来の信仰に背を向けた。彼らはこう言った。もし神が存在するというのがほんとうなら、なぜ神は彼が選んだ民が600万人も殺されるのを看過したのか。なぜいかなる奇跡的な介入もされなかったのか。信者を見捨てた神をなぜ私たちはまだ信じ続けなければならないのか、と。
そういう人たちに向かってレヴィナスはこう語った。では訊くが、あなたがたはこれまでどんな神を信じてきたのか? 善行をするものに報償を与え、悪行をするものには罰を下す「勧善懲悪の神」をか? だとしたら、あなたがたが信じていたのは「幼児の神」である。
なるほど、勧善懲悪の神が完全に支配している世界では、善行はただちに顕彰され、悪事はただちに処罰されるだろう。だが、神があらゆる人間的事象に奇跡的に介入するそのような世界では、人間にはもう果たすべき何の仕事もなくなってしまう。たとえ目の前でどんな悪事が行われていても、私たちは手をつかねて神の介入を待っているだけでいい。神がすべてを代行してくれるのだから、私たちは不正に苦しんでいる人がいても疚しさを感じることがなく、弱者を支援する義務も免ぜられる。それらはすべては神の仕事だからだ。あなたがたはそのように人間を永遠の幼児のままにとどめおくような神を求め、信じていたのか?
ホロコーストは人間が人間に対して犯した罪である。人間が人間に対して犯した罪の償いや癒やしは神がなすべき仕事ではない。神がその名にふさわしいものなら、必ずや「神の支援なしに地上に正義と慈愛の世界を打ち立てることのできる人間」を創造されたはずである。自力で世界を人間的なものに変えることができるだけ高い知性と徳性を備えた人間を創造されたはずである。
「唯一なる神に至る道程には神なき宿駅がある」(『困難な自由』)この「神なき宿駅」を歩むものの孤独と決断が信仰の主体性を基礎づける。この自立した信仰者をレヴィナスは「主体」あるいは「成人」と名づけたのである。
「秩序なき世界、すなわち善が勝利しえない世界における犠牲者の位置を受難と呼ぶ。この受難が、いかなるかたちであれ、救い主として顕現することを拒み、地上的不正の責任を一身に引き受けることのできる人間の完全なる成熟をこそ要求する神を開示するのである。」(同書)
レヴィナスはこの峻厳なロジックによって、戦後いったん崩れかけたフランスユダヤ人共同体を再建した。二十代の私はこのレヴィナスの複雑な弁神論につよく惹きつけられた。信仰を基礎づけるのは市民的成熟であるという言葉は私がそれまでどの宗教者からも聞いたことのない言葉だったからである。
その一方で私は武道の修業を通じて「濃密な実在感をもつ非現実」が切迫することを身体実感として繰り返し経験した。私はこの感覚の統御のしかたを師に就いて体系的に学んだ。
これを「神秘主義」にカテゴライズする人がいるかもしれないが、非現実のものをリアルに感知するという経験は別に神秘的なものではない。ある周波数の空気の波動は人間の耳には聞こえないが、犬には聞こえる。たまたま犬に聞き取れる波動を感知した人間に向かって「あなたは神秘体験をした」と言うのも、「人間に聞き取れるはずがない」と決めつけるのも、どちらあまり賢い態度とは言えない。「そういうことって、あるかも知れない」とひとまず受け容れ、どういう条件が整うと「そういうこと」が起こるのか、それを丹念に詰めてゆくのが科学的な態度だと私は思っている。実際に、世に「神秘的」と呼ばれる経験の多くは「精度の低い計測機器では感知できなかった量的変化」である。計測機器の精度が上がれば誰にでも観察できる。
だから、宗教の儀礼や武道の技法はたいていの場合「身体という計測機器の精度を上げる」というたいへんにプラクティカルな要請に応えて組織化されているのである。
武道だけでなく、私が稽古している能楽もそうである。
長く稽古していると、能舞台と空間は、そこで演じられ奏される動きや響きに応じて、微妙にねじれたり、たわんだり、厚みを増したり、減じたり、熱を持ったり、冷え込んだり、粘度が上がったり、下がったりするということが皮膚感覚でわかるようになる。囃子の音楽と謡の詞章の意味と型の表象が舞台上のシテにくっきりとした動線を指示するということがわかるようになる。その指示に従えば、唯一無二の動線上で「それ以外にありえない」ような動きをするようになる。別にこのときシテは神秘体験をしているわけではない。そういうことが「わかる」ようになるための体系的な訓練をしてきたことの結果を享受しているに過ぎない。
残念ながら、私たちの生きている現代社会では、空間を行き交っている無数のシグナルを感知し、それに応じた最適行動をとる訓練の必要性を感じている人はきわめて少ない。それでも、心身の計測精度を上げる方法は無数にあるから、それと気づかずにうちにシグナル感受性が上がっているということは起こりうるだろう。
さきにふれたヴォーリズは宣教師でもあったから、かれが設計した建物が「信仰への導き」の装置となっているのは当然のことである。建物を実際にご覧になるとわかるけれど、ヴォーリズの建物には無数の暗がりがある。思いがけないところに隠し扉があり、隠し階段があり、隠し部屋がある。一つとして同じ間取りの部屋がない。好奇心にかられてドアノブを回して、見知らぬ空間に踏み込んだ学生は、その探求の行程の最後で必ず「思いがけないところに通じる扉」か「思いがけない景観に向かって開く窓」か、どちらかを見出す。その点でヴォーリズはほんとうに徹底している。好奇心を持って、自分の決断で、扉を押し開き、階段を昇っていったものは「思いがけないところに出る扉」か「そこ以外のどこからも見ることができない景色」という報償を必ず与えられる。信仰への誘いとして、また学びの比喩として、これほど教化的な建築物はあるまい。
ヴォーリズの建築物は「計測装置の精度を上げる」ことへのインセンティブとしてきわめてすぐれたものであったと私は思う。私自身その建物の中で長い時間を過ごしたが、それが武道家としての感覚形成と無関係であったとは思われない。
身体技法の修業では、「私の身体にはこんな部位があって、こんな働きをするのか」という驚きに満ちた発見が繰り返し起こる。見出された部位やその制御法は、稽古に先立つ段階では予見されていないものであった。そもそもそのような身体部位があることさえ知らぬままに稽古をしているうちに獲得された身体部位の感知と制御の技法である。それを「鍛える」とか「強める」ということははじめから不可能なのである。「そんなこと」が人間にできるとは思ってもいなかったことを自分ができるようになるというのが修業の順道なのである。だから、稽古に先立って「到達目標」として措定されたものは修業の途中で必ず放棄されることになる。そもそも修業とは「そんなところに出るとは思ってもいなかった所に出てしまう」ことなのである。
なぜかこのようなアプローチを現代社会は「非科学的」として退ける。少なくとも「どんな結果が出るかわからない研究」に科研費は下りない。修業的アプローチの有効性を信じるのを止めてしまったことが日本の学術的生産性の急激な低下の一因だと私は思っているが、それはまた別の話である。
現代における信仰共同体について論じて欲しいという依頼の原稿だったが、予備的な考察だけですでに紙数が尽きてしまった。少し急ぎ足で論点をまとめておきたい。
信仰を安定的に基礎づけるためには成熟と修業のふたつが必要だというのが私の経験的知見である。それはどの宗教についても変わらない。
現代日本の信仰共同体はその成員たちの霊的成熟と実効的な修業システムをバランスよく整備しているだろうか。私にはわからない。もちろん、どの信仰共同体もそれぞれのしかたで、教学の学習と儀礼の実修は行っているはずである。だが、「霊的な意味での成人になること」と「幽かなシグナルを感知し、適切に対応する能力を涵養すること」を目的とした効果的なプログラムを有しているかどうかについては、私はほとんど知るところがない。
前にキリスト教学校教育同盟に招かれて講演したときに、フロアからミッションスクールにおける日常的な宗教教育のかたちについてヒントを求められた。そのとき私は「チャペルの掃除をさせたらどうですか」と答えた。祈りの場を清浄なものに保つことが宗教実践の基礎中の基礎だと思ったからである。
当然ながら、人間は汚れた場所では祈ることができない。祈りとは幽かなシグナルを聴き取ろうとする構えのことである。祈るためには五感の感度を最大化しなければならない。だが、汚れた、騒がしい、悪臭が漂う場所で私たちは五感を敏感にすることができない。感覚の精度を上げることによって不快が増す環境において私たちは「祈る」という構えを取ることができないのである。
だから、「祓い、浄める」ことが宗教的な行の一番基本に来るというのは当たり前のことだと私は思っている。信仰の起源的なかたちが五感の限界を超えるものの切迫を感知する経験である以上、祈りの場はその信仰の発生の原風景を繰り返し再演するためのものでなければならない。そのためには何よりも人間がその五感の感受性を最大化し、限界を超えるところまで精度を上げることができるような低刺激環境を整備することが必要だと私には思えるからである。だから、ことである「チャペルを掃除する」というのは、学生生徒たちに「祈る」とはどういうことかを身体的に実感させるために有用だろうと思ったので、そうお答えした。「祈り」の身体実感がわからない人間には宗教の意味を理解させることはできない。
武道の道場での作法も同じことである。稽古の前に私たちは道場を掃き清め、拭き浄め、稽古が終われば道場をまたていねいに浄め、窓と扉を閉めて立ち去る。道場は稽古以外には使わない。一日置いて道場の扉をあけると、ひんやりとした、粒子の細かい空気に肌が触れる。それはチャペルの扉を開けたときに感じる皮膚感覚とよく似ている。
私が自分の道場をどうしても欲しかったのは、公共施設である体育館の武道場があまり清潔ではなかったからである。私たちが入ると、直前まで使っていた団体が散らかしたままのことがあった。ほうきで掃いて、雑巾がけをしても、畳の汚れや細かい埃までは取りきれない。床が十分に清浄でないと、私たちの身体は微妙に防衛的になる。汚れた床の上を裸足で歩くときに、私たちはできるだけ床との接触面を減らそうと足裏を縮めて歩くようになる。悪臭がすれば鼻孔を収縮する。隣の部屋からうるさい音楽が聞こえてくれば耳を塞ぐ(実際に市の武道場を借りているときは隣室がダンス教室だったので、絶え間なく大音量の音楽が聞こえてきた)。環境そのものが五感の感度を下げて入力に対して鈍感になることを要求するような場所で武道の稽古をすることには何か本質的な無理がある。
信仰を得たものが「祈り」の場を作ろうと思ったときに課す条件は「清浄と静寂」ということに尽くされるだろう。武道の修業の場合も求めるものはそれと変わらない。
最後に個人的なことを書く。レヴィナスの哲学と合気道修業の間に二十代の私が「同じもの」を感じたまま、その内在的連関を言葉にできなかったと書いたけれど、四十年も同じことを繰り返していると、さすがに少しはわかってきたことがある。
それはこのどちらもが人間の生身感覚の上に構築された体系だということである。
レヴィナスの弁神論は一見すると徹底的に理知的な構築物であり、机上で思弁的に絞り出されたように見える。けれども、それがキーワードで「幼児」と「成人」という人間の生物学的な成熟プロセスをベースにして構想されたものであることを見落としてはならないだろう。
成熟を果たした人間にしか「成熟する」ということの意味はわからない。幼児が事前に「これから、こんなふうな能力や資質を開発して、大人になろう」と計画して、そのようにして起案されたロードマップに基づいて大人へと自己形成するということはありえない。幼児は「大人である」ということがどういうことかを知らないから幼児なのであり、大人は「大人になった」後に、「大人になる」とはこういうことだったのかと事後的・回顧的に気づいたから大人なのである。成熟した後にしか自分がたどってきた行程がどんなものだったかがわからない。それが成熟という力動的なプロセスの仕掛けである。
そして、なるほど私は成熟を遂げたのだという成熟のありありとした実感を最終的に担保するのは理知や概念ではなく、生身なのである。幼児のときには見えなかったものが見え、聞こえなかったものが聞こえ、判別できなかった香りや味がわかり、かつては感知できなかったものの接触や切迫がありありとわかること、それが成熟するということである。霊的成熟とは徹底的に身体的な、誤解を怖れずに言えば、生物学的な経験なのである。
レヴィナスは「生身を持つもの」にしか真の信仰を担うことはできないと教えたのである。20世紀の戦争と粛清と強制収容所の痛ましい経験からレヴィナスが学んだのは、悪とは「スケール」のことだということであった。生身の人間の尺度を超えたスケールで「人間的な社会」や「人間的価値」を作り出すことはできない。それがわかったときに、レヴィナス哲学と武道の内在的な関連が私にも少しだけ腑に落ちたのである。
信仰が根づき、開花するのは、結局は生身においてである。信仰にかかわるあらゆる理説あらゆる実践の適否は、生身の身体によってしか検証され得ない。だから、身体を持たない信仰主体は存在できないのである。自明のことだが、備忘のためにここに記しておく。
(2022-03-25 09:04)